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江戸時代のキャリア官僚「町奉行」過労死も招くほど驚きのブラック労働だった理由

江戸時代のキャリア官僚「町奉行」過労死も招くほど驚きのブラック労働だった理由

町奉行の仕事

『鬼平犯科帳』で有名な長谷川平蔵は、自ら街を巡回するなど、直接、現場に足を運ぶことで江戸の町の治安維持に貢献していました。

その一方で、同じく治安維持に携わっていた町奉行は、大事件の場合などを除いて現場に出動することはほとんどありませんでした。

そうなると、当然湧いてくる疑問が「彼らは普段なにをやっていたのか?」です。

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もちろん、サボッていたり、偉そうにふんぞり返っていたわけではありません。町奉行の職は激務で、忙しい時は夜中まで書類に追われていました。その実態を見てみましょう。

まず、月番の奉行所は明六(午前6時頃)に門を開かれますが、当番方の与力が次々にもたらされる訴訟を受け付け、町奉行はこれらの膨大な書類に目を通すなどの職務を行っていました。

そして明四ツ前(午前10時頃)には江戸城に登城し、勘定奉行、寺社奉行、大目付、遠国奉行らとともに本丸御殿に詰め、ほかの奉行と折衝をしたり、上司である老中の指示を仰いだりしました。

官位は高かった

非番の月には登城はありませんが、職務内容は基本的に変わらず、受理した訴訟の処理などを行います。

町奉行が個々の訴訟について調査することはなく、吟味方与力の中から担当を決めて取り調べを命じていました。

また南・北の両町奉行は、月番の奉行所に集まり、事務連絡や訴訟について話し合う「内寄合」を月3回開いていました。

町奉行の官位は、小大名や大身の旗本と同じ従五位下で格式は高かったようです。役高は享保8年(1723)に定められた「足高の制」により、3000石となっています。

町奉行は高い能力を求められるため、1000石に満たない旗本が抜擢されることもあり、在職中は禄高の差額分=足高が支給されていました。

2ページ目 ストレスフルで過労死

 

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