大河『べらぼう』殻をぶち破った恋川春町、史実では幕府をも皮肉りついに出頭命令…そして悲しき最期【後編】:3ページ目
松平定信の「寛政の改革」を皮肉たっぷりにおちょくる
さて、史実では、ドラマでも描かれていたように、恋町の名を一気に世に知らしめたのは絵も文も担当した1775年(安永4年)『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』。鱗形屋から出版されて、一大ブームを引き起こしました。
以来、次々と自画による黄表紙を発表。生涯において約30冊ほどの本を出したそうです。
喜多川歌麿の師ともいわれる鳥山石燕(とりやませきえん/片岡鶴太郎)に師事。北斎の師であった勝川春章(かつかわしゅんしょう/前野朋哉)にも影響を受けたそうで、春町の号は、春章を意識したという説もあります。
ユニークな作品としては、1779年(安永8年)刊行の『妖怪仕内評判記』(ばけものしうちひょうばんき)、があります。妖怪のような化け物がたくさん登場してくるのですが、インターネットのない江戸時代、これだけの発想力や想像力の持ち主であることには驚かされます。
その後、1783年(天明3年)ごろに蔦重との交流が始まり、「酒上不埒(さけのうえふらち)」という狂歌師としても活動。
1788(天明8)年には、北尾重政(橋本 淳)の門人で、絵師の北尾政美(高島豪志)に絵を担当させて、『悦贔屓蝦夷押領』(よろこんぶひいきのえぞおし)を、蔦重のもとで発表します。
「義経の鎌倉追放は兄・頼朝と示し合わせて蝦夷地の物産を鎌倉にもたらすためだった」という内容の黄表紙でした。時代背景は鎌倉時代で源義経を登場させてはいるものの、田沼意次のもとで賄賂が横行していることを揶揄した内容になっていたそうです。



