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今年の夏は「祇園祭」を極めよう!日本三大祭りの一つ「祇園祭」ってどんなお祭り?その歴史を中心に解説

今年の夏は「祇園祭」を極めよう!日本三大祭りの一つ「祇園祭」ってどんなお祭り?その歴史を中心に解説

「祇園祭」といえば、7月17日と24日に行われる「山鉾巡行(やまほこじゅんこう)」に注目が集まりがちですが、実は祭りは7月1日から31日までの1か月間にわたって執り行われ、その間にはさまざまな神事が粛々と催されます。

こうした神事の一つひとつに重要な意味が込められており、それらが「祇園祭」の全体像を形作っているのです。

開催まで1か月を切った「祇園祭」について、数回にわたり、1,200年近い歴史をひもときながら、その魅力と全体像をご紹介していきます。

今回は「祇園祭」の歴史と概要についてお話ししましょう。

町衆が力を合わせて守り抜いてきたお祭り

「祇園祭」は、貞観5(863)年に平安京に疫病が流行したため、勅命により神泉苑にて御霊会(ごりょうえ)が行われたのがその起源とされます。

平安時代に流行した疫病とは、天然痘や麻疹(はしか)など、ウィルスが原因で起こる流行り病いで、治療法が確立された現代とは異なり、感染すれば死につながる恐ろしい病気でした。

時代は100年ほど遡りますが、737年に大流行した天然痘では、当時の日本全体の人口の約3割にあたる150万人が命を落としたという試算があります。

貞観11(869)年になり、またしても都に疫病が大流行します。朝廷は、これをインドの祇園精舎の守護神・牛頭天王(ごずてんのう)の祟りと考え、急ぎ神事が行われました。

その際、祇園社司(ぎおんしゃつかさ)であった卜部日良麻呂(うらべひらまろ)は勅命により、全国の国の数に準じて長さ二丈(約6メートル)の矛66本を神泉苑に立て、祇園社(現在の八坂神社)から神輿を担いで病魔退散を祈願。これが祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)、略して祇園会(ぎおんえ)と称され、この矛にはやがて簡単な台車が付けられ、鉾車へと発展します。

そして室町時代になると、これらの鉾に趣向が凝らされるようになり、江戸時代中頃には、現在の「祇園祭」でみられるような鉾の形が定まったとされるのです。

このように「祇園祭」は、本来は朝廷の行事として始まりましたが、室町時代にはその催行が町衆に委ねられるようになりました。

町衆とは、産業が著しく発展した室町期から京都の町を支配した人々を指します。彼らは豊かな資金力を持つ商工業者に公家や武家の従者も加わり、支配する町名を冠して室町衆・三条町衆などと呼ばれ、地域ごとに自治を行ったのです。

彼ら町衆が「祇園祭」に果たした役割は、とても大きなものがあります。応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱で祭が中断された際も、乱後20年で復興を遂げ、さらに天文2年(1533年)、法華一揆の際に幕府から祭の中止命令が出されたときも、下京66町の町衆たちは「神事コレナクトモ、山鉾渡シタシ」と訴え、町衆の心意気を見せました。

このように、「祇園祭」は京の町衆たちのエネルギーによって、1,000年以上にわたる今日まで守り抜かれてきたのです。

「祇園祭」や八坂神社のことを、京都の人々は “ぎおんさん”と呼びます。「ああ、今日は“ぎおんさん”の宵山や」。この“さん”付けには、町衆と神社が一体となった「祇園祭」への親しみと敬意が込められているのです。

2ページ目 祭りの基調音コンチキチンとは?

 

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