
その数10人超!戦国時代「三方ヶ原の戦い」で討ち死にした徳川軍の武将たちそれぞれの最期を紹介
1573年1月25日(元亀3年12月22日)に、静岡県浜松市・三方ヶ原台地で武田信玄と徳川家康の間で行われた合戦「三方ヶ原の戦い」。
戦いの結果は徳川軍の大敗北。歴史ファンにとっては有名な戦いですが、同時に謎も多い戦場です。
家康の無謀な挑戦と信玄の巧妙な戦略!戦国ファンには有名で同時に謎も多い「三方ヶ原の戦い」とは?
この戦で徳川軍は多くの家臣を失ってしまいますが、一体誰が戦死したのでしょうか。そこで今回は、「三方ヶ原の戦い」で命を懸けて家康を守った忠臣たちの最期を紹介します。
家康の影武者となった夏目広次
夏目広次は徳川氏の譜代家臣・夏目氏の出身で、三河一向一揆では家康と敵対しました。『どうする家康』では甲本雅裕さんが演じ、何度も名前を間違えられるシーンが印象的ですね。
そんな広次は、三方ヶ原の戦いでは浜松城を守っていました。櫓から徳川軍の状況を知ると、家康に撤退を持ちかけます。しかし、家康が武田軍目掛けて突撃を決行していたので、馬を強制的に方向転換させまました。
そして、自らを家康と名乗り、十文字の槍と25人の騎兵を率いて、武田軍と戦いました。広次は奮戦するも、討ち取られました。
殿として最後まで戦った本多忠真
本多忠真(演:波岡一喜さん)は本多忠勝の叔父として知られ、幼少期に父を失った忠勝に読み書きから武士の心得などを教えました。忠勝の初陣後は補佐役として、窮地に陥った忠勝を救う活躍をみせました。
そんな忠真は、三方ヶ原の戦いで徳川軍撤退時に殿(しんがり:囮役)を引き受けます。
旗を左右に突き刺し、「ここから後ろへは退かぬ」と言った後、武田軍と戦闘。武田軍を引き付けるも、ついには討ち死にしました。
馬場信春の突撃を防ごうと戦った成瀬正義
成瀬正義(なるせ-まさよし)は使番・旗奉行として家康に仕えました。しかし、永禄5年(1562)に同僚を斬りつけたことで出奔。
翌年の三河一向一揆で帰参を許され、その後は織田氏の援軍としての六角氏の箕作城攻めや姉川の戦いに参加し、戦功を挙げました。
そんな正義は三方ヶ原の戦いで徳川本陣の守りについていました。しかし、馬場信春が突撃を決行することを知ると、成瀬家のことの弟・成瀬正一に託し、戦いに臨みます。
正義は家康の身代わりとなり、討ち死にしました。ちなみに、正義が討ち死にした場所は成瀬谷として知られています。
また、正義と共に討ち死にすることを約束した鳥居信元も、敵中に入った末に討ち死にしました。