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政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【中編】

政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【中編】:4ページ目

しかし、兵力で勝る幕府軍は次第に態勢を立て直し、豊臣軍は夕刻前に壊滅。大坂城本丸を目指し幕府軍が殺到し、次々に城内へ乱入しました。

この局面で、大野治長は千姫を脱出させ、自身らが切腹する代わりに秀頼と淀殿の助命を嘆願しようとします。治長にとって、豊臣家滅亡を防ぐ最後の切り札は千姫でした。

よく知られた逸話として、追い詰められた淀殿が千姫を徳川方へ逃がさないよう、千姫の着物の袖を膝の下に敷いて離さなかったとされますが、これはおそらく事実ではありません。

実際には、千姫は夫・秀頼と離れることを望まなかったものの、秀頼の命を救う唯一の手段は自分にあると覚悟し、葛藤を抱えながらも父・秀忠の本陣に向かったのでしょう。

『徳川実紀』によると、秀頼母子の助命を家康と秀忠に請うため大坂城を出た千姫一行は、徳川方の坂崎直盛の軍勢に出会います。直盛は千姫を無事に家康の本陣がある茶臼山へ送り届けました。

家康に対し、千姫は必死に秀頼・淀殿の助命を訴えたと思われます。このとき家康は、孫娘に対し、「将軍(秀忠)の意向に委ねる」と答えました。

しかし、秀忠は秀頼と淀殿の助命嘆願を拒絶します。さらに、娘の千姫に対し、秀頼とともに自害しなかったことを非難し、「女子とはいえ、秀頼とともに焼死すべきであったのに、城を出たのは見苦しい」とまで言い放ったと伝わります。

そして5月8日、秀頼と淀殿は山里丸の蔵にて自害し、大坂夏の陣は終結。豊臣氏は滅亡しました。夫の助命を願っていた千姫にとって、この結末は断腸の思いだったでしょう。

それでも千姫は、豊臣家のために最後の尽力を見せます。秀頼と側室の間に生まれた娘(後の天秀尼)が処刑されそうになると、身を挺して助命を嘆願し、養女として仏門に入れることを条件にその命を救いました。

千姫には深窓の姫君というイメージが付きまといますが、穏和な性格の一方で、このような強い意志を持つ女性であったのです。

この直後、家康は千姫の侍女・ちょぼに宛てて、心労で病に伏した千姫を気遣う手紙を書き、江戸へ下向する際にぜひとも千姫に面会したいと記しています。

徳川家のためとはいえ、政略結婚により愛する孫娘に多大な心労を強いた家康は、深い悔恨と申し訳なさを感じていたのでしょう。一方、千姫も複雑な思いを抱きつつも、祖父を憎むことはなかったのではないでしょうか。

それでは[中編]はここまで。[後編]では、大坂の陣後の千姫の生涯についてお話ししましょう。

【後編】の記事はこちら↓

政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【後編】

江戸幕府を開いた徳川家康の孫であり、第2代将軍・徳川秀忠の長女である「千姫(せんひめ)」は、時代の波に翻弄されながら、激動の江戸初期を生きた悲劇のヒロインとして語られることが多い人物です。…

※参考文献:福田千鶴著 『豊臣秀頼』 吉川弘文館

 

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