
政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【後編】
江戸幕府を開いた徳川家康の孫であり、第2代将軍・徳川秀忠の長女である「千姫(せんひめ)」は、時代の波に翻弄されながら、激動の江戸初期を生きた悲劇のヒロインとして語られることが多い人物です。
しかし、史実の「千姫」は、弟の第3代将軍・家光を支え、徳川家の礎を築くために力を尽くした女性でした。
今回は、そのような「千姫」のドラマチックな生涯を、[前編][中編][後編]の3回に分けて紹介します。
前回の記事↓
政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【中編】
[後編]は、豊臣家滅亡後の千姫の生涯についてお話ししましょう。
ひと悶着あるも本多忠刻と再婚を果たす
大坂夏の陣から約1年後の1616年、千姫は新たな人生を歩み始めます。桑名藩主・本多忠政の嫡男である本多忠刻(ほんだただとき)と再婚したのです。ちなみに、忠刻の祖父は、徳川四天王の一人として名高い本多忠勝です。
この頃、千姫が輿入れする行列を襲撃し、強引に奪い取ろうとする計画が発覚しました。いわゆる「千姫事件」と呼ばれるもので、実行を企てたのは、大坂落城の際に千姫一行を保護した津和野藩主・坂崎直盛でした。
この事件の真相については諸説あり、いまだ明らかではありません。従来は、千姫を救出した功績により家康から婚姻を許されていたものの、千姫に嫌われたためにその約束が反故にされた、という説が一般的でした。
しかし、近年では、直盛が家康から千姫の再婚相手の選定を任されていたにもかかわらず、幕府が一方的に本多家との縁談を決定したことに、武士としての面子が潰されたという説が有力です。
事件後、直盛は江戸藩邸に立て籠もりますが、最終的には家臣によって殺害された、あるいは自害したとされています。いずれにせよ、幕府に公然と逆らった坂崎家は、改易処分となりました。
最初の夫・豊臣秀頼を失い、傷心のうちにあったと思われる千姫が、新たな人生を歩み始めようとした矢先に起きたこの事件は、またしても一人の男の死を招く結果となってしまいました。この出来事が、千姫を“悲劇の主人公”と見なす一因となっているのかもしれません。