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政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【後編】

政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【後編】:3ページ目

将軍家長老として大奥の組織づくりを行う

江戸城に入った千姫(天樹院)は、勝姫とともに竹橋御殿で暮らしました。しかし、1628年に最愛の娘・勝姫と別れ、一人暮らしとなります。勝姫は父・徳川秀忠の養女として、備前岡山藩主・池田光政に嫁いだのです。

1632年、父である徳川2代将軍・秀忠が薨去し、弟の家光が3代将軍に就任します。

1644年には、将軍家光の厄年を避けるため江戸城を離れていた側室・夏(後の順性院)が、竹橋御殿で綱重(後の甲府藩主)を出産しました。千姫は綱重の養母となり、江戸城大奥において大きな権力を持つようになります。その発言力は、4代将軍・家綱の時代にも衰えることなく、“北の丸様”として大奥の最高顧問的な権威を有していたとされます。

徳川家光といえば、その乳母である春日局が有名です。春日局は1643年に亡くなっていますが、千姫が1626年に江戸城に入って以来、この二人は二人三脚で大奥の組織づくりに取り組みました。

春日局は家光に対して非常に厳格な教育を施しており、特に側室に関する女性問題については、時に行き過ぎと思えるほどの厳しさでした。また、大奥の役職や法度を整理・拡充し、将軍の権威を背景にして、幕府の最高職である老中をも凌ぐ権力を持つ組織を完成させました。

春日局がこのように強権的な手段を行使できたのは、その背後に千姫(天樹院)の存在があったからだといわれています。

家光は、祖父・家康や父・秀忠と異なり、「生まれついての将軍」でした。すなわち、戦を経験したことのない武家の棟梁であり、諸大名にとってはカリスマ性に欠けた存在でした。

さらに家光は、幼少期には病弱で吃音があり、容姿も決して美麗とは言えなかったとされます。そのため、弟の忠長を将軍に推す声も多く、春日局はその窮状を家康に直接訴えたと伝えられています。

そのような家光を立派な将軍へと導いたのが、千姫と春日局であり、春日局の死後は、家光は何かにつけて、将軍家長老である千姫を頼ったといわれているのです。

4ページ目 優しさと誠実さにあふれた千姫

 

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