政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【中編】:2ページ目
千姫の身辺にも及んだ容赦ない砲撃
11月半ば、徳川方は20万の軍勢で大坂城を包囲し、ここに豊臣と徳川の最初の戦いである「大坂冬の陣」が始まりました。
これに対し、後藤基次、真田信繁、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登ら五人衆をはじめとする牢人勢を加えた豊臣方は、10万の兵で迎え撃ちます。
五人衆は野戦を主張し、その間に西国の豊臣恩顧の大名たちの寝返りを促す策を献じました。しかし、大野治長をはじめとする豊臣家の家臣たちは籠城戦を主張します。結局、大坂城周辺に砦を築き、堅固な大坂城に籠城する作戦が採用されました。
冬の陣では、真田信繁が出城・真田丸を築いて徳川方の軍勢を撃退するなど、豊臣方の善戦も見られました。しかし、城攻めのための仕寄(塹壕)の構築や、100門を超えるといわれる大砲による攻撃が行われるようになると、大坂城内の被害は増していきます。
徳川方が使用した大砲の中には、長い射程距離を持つイギリスから輸入した最新兵器・カルバリン砲4門、セーカー砲1門が含まれており、こうした大砲によって昼夜を問わず大坂城内への集中砲火が加えられました。
特に11月16日から4日間続いた砲撃は、その砲声が京都にまで聞こえたと伝えられるほど激しいものであったようです。
その砲撃目標は、片桐且元をはじめ、大坂城を退去した旧豊臣家臣たちの情報に基づき、的確に設定されたともいわれています。
そして、ついに本丸を狙った一弾が淀殿のいる櫓に命中し、一度に8人もの侍女を吹き飛ばして即死させました。
この砲撃に衝撃を受けた淀殿は和睦へと傾き、12月16日、ついに和議に乗り出し、12月19日に和睦が成立しました。
徳川方の熾烈な砲撃は、目標を定めて実施されたとはいえ、現代の大砲とは異なり、命中精度に大きな誤差があったことは間違いないでしょう。そのため、砲撃はいわば無差別的なものであり、城内にいる千姫に危害が及んだとしても、なんら不思議ではありませんでした。
そのような砲撃を実施したことから、家康も秀忠も、千姫に危害が及ぶ可能性をある程度許容していたと考えられます。
豊臣家に嫁ぐ前、千姫は祖父や父の深い愛情に包まれて育ちました。そんな彼らから情け容赦ない攻撃を受けたとき、彼女の心中はいかばかりだったことでしょう。

