政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【中編】:3ページ目
秀頼の助命歎願は叶わなかった
「大坂冬の陣」では、淀殿の妹であり、江の姉である初(京極高次夫人)が、徳川家康の側室である阿茶局とともに講和交渉で大きな役割を果たします。
しかし、講和条件には本丸を除く大坂城の曲輪の破却や堀の埋め立てが含まれており、1615年1月8日から工事が始まり、1月24日には完了しました。
これにより、大坂城は本丸のみが残る“裸城”となり、難攻不落といわれた惣構や堀などの防御機能は全て失われたのです。
なぜ秀頼や淀殿は、自滅行為ともいえる城の破壊を容易に受け入れたのでしょうか。一つの説として、内堀の埋め立てを豊臣側で行うという条件を結び、工事を意図的に遅らせて時間を稼ごうとした可能性が指摘されています。
この間に、高齢の家康の死や、豊臣恩顧の大名たちの支援を期待していたと考えられ、また、講和を結んだ以上、関白家である豊臣氏に家康や秀忠が手出しできないだろうという楽観的な見通しもあったのではないでしょうか。
これらは、秀吉の威光を忘れられない淀殿を中心とする豊臣側の思考を反映しているといえます。しかし、徳川方はこの意図を見抜き、諸大名に命じて一気に堀の埋め立てを完了させてしまいました。
いずれにせよ、豊臣方の認識はあまりにも楽観的だったといえるでしょう。これにつけ込むように、徳川幕府は秀頼に対し大和または伊勢への移封を要求します。豊臣方は4月5日、大野治長を駿府に派遣し、秀頼の移封免除を嘆願しますが、すでに家康は3月末に諸大名へ動員令を発していました。
このように、どのような努力を重ねても、徳川と豊臣両家の関係は修復不可能でした。23歳になった秀頼は、豊臣家の威信をかけ徳川と戦う姿勢を強め、大坂城の修築、牢人の呼び戻しなどを進めます。
こうして4月25日、運命の「大坂夏の陣」が始まりました。両軍の兵力は徳川方約15万に対し、豊臣方約8万。兵力差に加え、防御力が低下した大坂城では、野戦に活路を見出すしかありませんでした。
それでも豊臣方は必死に戦いを挑みます。緒戦では徳川方の兵站基地である堺の焼き討ちに成功しますが、その後の戦いで後藤基次、増田盛次、木村重成ら諸将が討死し、豊臣方は大坂城近郊に追い詰められてしまいます。
そして5月7日正午頃、最後の決戦となる天王寺・岡山合戦が行われます。豊臣方は真田信繁隊、毛利勝永隊、大野治房隊などが突撃し、家康と秀忠の本陣に迫りました。
この時、家康の本陣は大混乱に陥り、家康はわずかな旗本勢に守られながら逃げる事態に追い込まれ、家康は自害を覚悟したと伝わります。


