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北条早雲の“成り上がり伝説”はウソだった!?最新研究で明らかになった北条氏の出自と統治の秘訣

北条早雲の“成り上がり伝説”はウソだった!?最新研究で明らかになった北条氏の出自と統治の秘訣

北条早雲は素浪人ではなかった

戦国時代の北条氏と言えば、その初代は北条早雲ですが、その人物像のイメージも近年は大きく変わっています。

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早雲のこれまでのイメージは、素浪人から成り上がり、謀略や奇襲を得意として「梟雄」とも称されたというものです。

しかしこのイメージは『太閤記』を始め、江戸時代の軍記物に描かれたイメージの影響が強いと言えるでしょう。

現在では研究が進み、彼は素浪人どころか室町幕府の政所執事の家系である伊勢氏の出身で、自身も将軍・足利義尚の下で官僚を務めた経歴が判明しています。

姓は伊勢、名は盛時で、出家して早雲庵宗瑞と称したのです。

また早雲は88歳まで長生きしたとされていますが、これも系図などの史料を精査したところ、実際には64歳で死去したことが分かっています。これまでは、生まれ年が誤って理解されていたのです。

どうやら北条早雲の実像については、軍記物に誤った記述がされて以降、明治以降の学者に無批判に信じられたところがあるようです。

類例のないデザインの庭園

2013年末には、小田原城(神奈川県小田原市)の御用米曲輪跡の発掘調査で、ひときわ変わった遺構が発見されました。

色、大きさ、形が違う石が地面にパズルのように敷き詰められた、ヨーロッパの石畳を思わせる景観だったのです。

その直前にも、庭園跡では五輪塔(石供養塔)など、四角い部材を並べて護岸にしたタイル張りのような見た目の、類例のない池が発見されていました。

これらは、関東を支配した北条氏が、本拠の中枢に独自の審美眼に基づく庭を造作したことを物語っています。

2ページ目 「小田原評定」の再評価も

 

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