
死を隠した3年間、実はバレバレだった影武者…戦国時代の名将・武田信玄の伝説の真相をあばく:2ページ目
死を隠した3年間の真相
さて、武田信玄は1573年、信濃国伊那の駒場で亡くなりました。
死に臨んで子の勝頼に「3年間、喪を秘し、領内の備えを固めたら、必ず都へ攻め上れ」と遺言したと言います。自分の死が知れ渡れば他の大名が攻めてくるのを恐れたのでしょう。
勝頼はこの遺言を守り、信玄を隠居扱いにして生存しているかのように振る舞いました。
そして3年後、恵林寺で盛大な葬儀を行い埋葬します。その間に小田原城主・北条氏政が使者を送って様子を伺いましたが、勝頼は影武者を使って危機を脱したとされています。
ところが、この「死を隠す作戦」は実はバレバレだったのです。
氏政の使者は信玄の死をしっかり報告し、さらに氏政は上杉謙信に通報。謙信は食事中に報せを聞いて箸を投げ捨て、「惜しい人を亡くしたものよ」と涙したそうです。
一方、織田信長は喜び、徳川家康は哀悼の意を述べています。勝頼は「うまく隠せてる!」と思っていたようですが、実際には多くの大名にバレていたのでした。