
縄文時代、戦争は本当になかったのか?「弥生時代に貧富の差が生まれ戦争が起きた」という歴史観が揺らいでいる
弥生時代の「倭国大乱」
中国の歴史書「魏志倭人伝」(『魏書』東夷伝倭人条)は、3世紀の日本について「倭国乱れ、相攻伐すること歴……」と記しています。
これがいわゆる「倭国大乱」のことで、卑弥呼が登場する前の日本は、小さな国同士が互いに争っていたというのです。
実際、弥生時代の遺跡にはその痕跡がたくさん残っています。
例えば福岡県福岡市の板付遺跡や神奈川県横浜市の大塚遺跡、愛知県清須市の朝日遺跡などのように、集落の周囲に外部から敵が侵入するのを防ぐための逆茂木(茨など棘のある枝を並べて垣にしたもの)や濠などが造られたものがあります。
また、香川県三豊市の紫雲出山遺跡に現れた高地性集落は、有事の際に避難する「逃げ城」と言われています。
さらに、これらを始めとする弥生時代の遺跡からは、戦争犠牲者と思われる人骨も発掘されています。
貧富の差と戦争
では、弥生人は縄文人よりも好戦的だったのでしょうか。
狩猟採集生活を基本とする縄文人と、農耕生活を基本とする弥生人。どちらが攻撃的なイメージかと聞かれれば、槍を持って鹿や猪を追いかけていた縄文人のほうが野蛮で、攻撃的、好戦的だっただろうと答える現代人が多いのではないでしょうか。
それにもかかわらず、定説によれば戦争は弥生時代から始まったといいます。
では、なぜ弥生時代が戦争の始まりなのか。その答えは、弥生時代に中国大陸や朝鮮半島から稲作が日本に伝わり、農耕社会が成立したからです。
稲作の伝来により弥生人は安定した食料の確保が可能になり、定住して生活ができるようになりました。しかし、どこに村(集落)を作るかによって稲の収穫に差が出るのは昔も今も同じです。
つまり貧富の差が生じたわけですが、これによる略奪行為から戦争が始まったというわけです。
ということで、稲作が始まっていない縄文時代には戦争はなかったと考えられてきました。
弥生人が好戦的だったとまでは言えませんが、貧富の差の発生がギスギスした社会を生み出したのであり、それ以前は争いのないユートピアだった(これも言いすぎかも知れませんが)というイメージが、日本人の歴史観の根底にあると言ってもいいでしょう。