謎多き浮世絵師・東洲斎写楽はなぜ消えた?浮世絵史の謎に迫ってみると…【大河ドラマ べらぼう】:2ページ目
東洲斎写楽の正体は?
かくして(少なくとも写楽としては)絵筆を折り、浮世絵界を去ってしまった写楽。果たしてその正体は何者だったのでしょうか。
写楽の正体については諸説あり、浮世絵史における最大の謎ともされてきました。
それが近年の研究によると、斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべゑ)であろうという説が最も有力のようです。
斎藤十郎兵衛とは阿波徳島藩に仕える能役者で、徳島藩が江戸屋敷を構える八丁堀(現代の日本橋茅場町あたり)に住んでいたと言われます。
……俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯(阿波徳島藩主)の能役者也……
※斎藤月岑『増補浮世絵類考』
写楽の画風は勝川春章(かつかわ しゅうんしょう)・勝川春好(しゅんこう)・勝川春英(しゅんえい)・鳥居清長(とりい きよなが)・流光斎如圭(りゅうこうさい じょけい)ほか、狩野(かのう)派や曾我(そが)派などの影響を受けていました。
師弟関係があったのか、あるいは私淑していたのかも知れませんね。
写楽として約10ヶ月の期間で発表した作品数は、役者絵134枚・相撲絵7枚・武者絵2枚・役者追善絵2枚・恵比寿絵1枚のほか相撲版下絵10枚・役者版下絵9枚。
約10ヶ月≒約300日として、2日に1枚以上のハイペースで絵を描き上げたようです。あるいはかねて描き貯めていたのを一気に放出したのでしょうか。
結果はともかく、出版には並々ならぬ意欲と情熱を注いでいたことが感じられます。
