手洗いをしっかりしよう!Japaaan

奈良時代の「藤原広嗣の乱」はなぜ起きた!?当時の中央集権化に対する不満も一因だった

奈良時代の「藤原広嗣の乱」はなぜ起きた!?当時の中央集権化に対する不満も一因だった:2ページ目

反乱の発生と九州での戦闘

藤原広嗣が反乱を起こした背景には、当時の九州地方が置かれた社会情勢も影響しています。奈良時代の中央政府は、地方に対して厳しい税金を課し、軍事的な緊張を背景に九州地方でも不安が広がっていました。特に、朝廷からの過度な税負担や、軍事的な圧力に対する反発が地方豪族の間に高まっていたのです。

広嗣は、このような地方の不満を利用し、軍を募って反乱を起こしました。広嗣は、まず玄昉と吉備真備を排除することを上表し、反乱軍を編成して筑前国を進軍。彼の軍勢は3つに分けられ、豊前国(現在の福岡県)の登美(とみ)、板櫃(いたびつ)、京(みやこ)という3つの地点を目指しました。この際、広嗣は自らの旗印を掲げ、中央政府に対する挑戦を鮮明にしました。

中央政府の対応と広嗣軍の敗北

しかし、広嗣の反乱は思うように進展しませんでした。中央政府は迅速に対応し、全国的な兵力動員を行います。大野東人(おおののあずまびと)を大将軍に任命し、勅使を派遣して広嗣軍に対抗しました。中央軍は関門海峡を越えて九州に上陸し、広嗣軍が目指した三鎮を次々と制圧。広嗣軍は大損害を受け、豊前国の豪族たちが次々と降伏しました。

その後、広嗣は、板櫃川の西岸に陣を構え、中央政府軍と対峙しましたが、勅使・佐伯常人との交渉で論破されてしまいます。その結果、広嗣軍は総崩れとなりました。広嗣は弟の藤原綱手(つなて)と共に逃亡を図りますが、西風によって船が戻され、肥前国松浦郡の値嘉島で捕えられ、処刑されました。現在の暦で11月末だったことから、西風はおそらく冬型気圧配置の偏西風だったと考えられます。

3ページ目 乱の収束とその後の影響

 

RELATED 関連する記事