【光る君へ】ロクな未来が待ってない予感…「藤原通任(古舘佑太郎)」とはどんな人物?生涯をたどる:2ページ目
道長の圧力に屈する
……が、これを藤原道長が快く思うはずもありません。道長は通任ら三条天皇一派に対して、あらん限りの嫌がらせを展開します。
その結果として、当時30人近くいた公卿のうち、娍子の立后儀式に参列したのは通任・藤原実資・藤原隆家・藤原懐平(かねひら)だけという有様。
残る二十数名は、ことごとく道長の権力に屈したか、通任らに反感を持っていたのでした。
しかし通任も通任で、翌長和3年(1014年)に当子内親王(とうし/まさこ。三条天皇と娍子の娘)が斎宮(さいくう、いつきのみや)として伊勢へ下向する際、随従の勤務態度が怠慢であったと批判を受けています。
もしかしたら、皇后の弟という立場にあぐらをかいてしまっていたのかも知れません。
のち長和5年(1016年)に三条天皇が敦成親王(あつひら。後一条天皇)に譲位すると、通任は春宮となった敦明親王(あつあきら。三条天皇と娍子の嫡男)に仕え、春宮権大夫(とうぐうのごんのたいふ)を務めます。
しかし寛仁元年(1017年)に三条院(上皇)が崩御すると、道長は敦明親王に圧力をかけて春宮を辞退させる暴挙に出ました。
かつて三条天皇は「敦明親王を次の春宮とすること」を条件として譲位したのですが、道長はこれを反故にしたのです。
敦明親王を押しのけた次の春宮は敦良親王(あつなが)。後に即位して後朱雀天皇となりました。
このまま三条天皇一派は駆逐されるかと思いきや、さすがに周囲の反感を考慮したのか、残党らには穏当な措置を講じます。
通任は最終的に正三位・権中納言まで緩やかに昇り、後朱雀天皇の御代となっていた長暦3年(1039年)6月に66歳で薨去しました。