男専門に体を売る若き美少年……江戸時代の男娼「陰間」は出身地により「格」が違った【前編】

高野晃彰

日本では、男性と男性が肉体関係を持つ「男色」は古くから存在しています。

養老4年(720)成立の『日本書紀』にある、小竹祝と天野祝という二人の仲のよい男性神官にまつわる『阿豆那比(あずない)の罪』という話が、男色に関する最古の記述だそうです。

その後、時代の変遷とともに男色や衆道は、「僧侶と稚児」「戦国武将と部下や小姓」へと広がりをみせました。

『日本書紀』のみならず、『万葉集』『伊勢物語』『源氏物語』など名だたる書物にも記載がある男色ですが、江戸時代には町民・役者などに間でも親しまれるようになり、ごく一般的なことになりました。

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「お江戸三代男色地帯」も誕生し、遊女よりも料金が高かったとか。美少年が多かったという陰間ですが、どのような存在だったのでしょうか。

男娼にも階級があった

「女性との性的関係をは禁じられていた僧侶と、僧侶の身の回りのお世話をする美しい稚児」「戦国武将と、心身ともに固く結ばれた若き部下や小姓」など、僧侶・貴族・武家の間で流行っていた男色や衆道は、江戸時代に入るとさま変わり。

町民階級でもよりカジュアルに嗜まれるようになりました。

そこでポピュラーな存在になってきたのが、男性専門に体を売る男娼(だんしょう)です。

日本では古くから歌や踊りを行う芸人が体を売ったり、親方が少年を抱えて客に売り収益を上げるという商売がありました。

江戸時代の寛永6年(1629)には、初期歌舞伎の形態のひとつで前髪立ちの美少年を中心とした歌舞伎「若衆歌舞伎」が人気となったのです。

ところが、人気役者を巡って武士同士の喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかったことから、承応元年(1652年)幕府により禁止に。

そして、若衆のシンボルである前髪を剃り落とし、野郎頭になることを条件に成人した男性中心の「野郎歌舞伎」が始まります。

男性だけが演じるために女性を演じる「女形」も生まれ、今現在の歌舞伎の原型となりました。

しかし、その後も役者などによる売色(ばいしょく)は廃れることがなく、女形はより一層女性に近くなり「女形が男性に抱かれることは、女性らしさを学ぶ役者修業になる」とも教えられたそうです。

3ページ目 男性版の遊郭「陰間茶屋」とは

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