将来を悲観して酒びたり
『学問のすすめ』などを著した福沢諭吉は、勉学に励む真面目な人物との印象がありますが、実は大の酒好きでもありました。
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一万円紙幣の代名詞となっている福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)。よく浪費した時など「諭吉が飛んでいく」なんて言いますよね。また「天は人の上に人を造らず」……のフレーズでおなじみ『学問のすゝめ』でも…
しかも、彼の飲酒は未成年の時から始まっていたというのですから驚きです。しかしそれには深い事情もありました。
諭吉少年には幼いころからすでに酒を飲む癖がありましたが、その理由は、彼が世の中を悲観していたからです。
諭吉は、豊前中津藩(現・大分県)の大坂蔵屋敷の勤番をしていた百助の次男として生まれています。福沢一家は、大坂という都市の空気を吸い、その流儀に染まっていましたが、父・百助が急死したことで、一家で九州の中津に戻ることになりました。
ところが、上方暮らしにすっかりなじんでいた福沢一家は、中津の気風にはまったく合いませんでした。中津藩内は封建的な気風であふれていたのです。
たとえ同じ待でも、上位の侍と下位の侍は厳然と区別されていたという土地柄でした。それは子ども同士のつきあいまでおよんでいて、町人の街・大坂で自由な空気に親しんでいた福沢家には、到底なじめるものではありませんでした。
そのため、福沢家は中津藩の中で孤立したうえ、生活は苦しく、諭吉少年も内職に明け暮れていました。
そんな状況下で、彼は中津での将来にすっかり絶望します。また父が教養人でありながら出世できなかったという事実を知ったこともあって世の中がつまらなくなったようです。
その憂さ晴らしもあって、福沢は幼いころから酒を飲むようになったのでした。