富士山に憧れすぎて…江戸時代、幕府の反対を押し切り富士登山を強行した大名・松平宗秀という男
みなさんは、富士山に登ったことがありますか?現在はインバウンドの影響もあり、外国人観光客が富士山に登るというニュースもよく耳にしますよね。
そんな日本国内・国外から人気を集めている富士山ですが、はるか昔、江戸時代の後期に富士山に登った松平宗秀(まつだいらむねひで)という幕臣がいました。
今回の記事では、松平宗秀に焦点をあててご紹介したいと思います。
松平宗秀と徳川綱吉のつながり
松平宗秀は江戸時代後期に生き、活躍した人物ですが、徳川家5代将軍である徳川綱吉と意外な接点があります。
それは、松平宗秀は丹後国宮津藩の6代藩主であり、本庄松平家9代なのですが、本庄氏は、綱吉の母・桂昌院の実家なのです(桂昌院の弟・本庄宗資が藩祖)。
本庄氏は、綱吉に取り立てられて大名となりました。以後、明治維新まで宮津藩の藩主をつとめた家系です。2代・資俊のときには松平姓も与えられ、幕府の中の要職をつとめるようになりました。
松平宗秀の生まれ
松平宗秀は、1809年(文化6年)4代藩主・松平宗允の三男として生まれました。彼が幼いときに父が亡くなったため、叔父をはさみ、1840年(天保11年)に家督を相続しました。
松平宗秀の幕臣としての活動
松平宗秀は寺社奉行として、井伊直弼のもとで働き、安政の大獄を行政化して処罰を行いました。その後もさまざまな役職に任命されては更迭や降格を繰り返す、激動の幕臣人生でした。
幕末においては旧幕府軍の一角を担い、鳥羽伏見の戦いで敗戦。明治維新後は、明治政府に恭順。その後、本庄松平家は華族となりました。
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