宣孝の死亡フラグ?まひろの娘、実際は誰の子?ほか…大河ドラマ「光る君へ」7月14日放送振り返り:5ページ目
宣孝の激務と死亡フラグ
劇中でもふれていた通り、宣孝はこの時期何かと多忙でした。
何かとお役目に与(あずか)れば覚えめでたく、その後も出世が期待できます。
それもこれも、すべてはまひろが道長と通じてくれるお陰……なんでしょうね。何だか宣孝自身の努力や才能ではないようで、ちょっとモヤモヤします。
ともあれこの時期の様子をまとめてみましょう。
長保元年(999年)
- 11月7日 定子の出産を奉仕
- 11月11日 賀茂の臨時祭で人長舞を披露
- 11月27日 宇佐神宮への勅使として京都を発つ
長保2年(1000年)
- 2月3日 帰京する
- 4月1日 平野臨時祭の勅使を務める
- 7月27日 相撲節会に列席する
- 10月15日 殿上の雅楽に奉仕する
長保3年(1001年)
- 1月2日 供御薬事に奉仕する
- 2月5日 春日大社の祭礼で代官を命じられるも、痔が発症したため辞退
- 4月25日 病のため卒去(流行病?痔?大腸がん?)
こうして見ると「数ヶ月ごとじゃん。そんなに忙しいの?」と思うかも知れませんが、これらの儀式などは当日パッと出来るものではないのです。
現地に行ったり戻ったり、会場準備や物品調達などもしなくてはなりません。
更には日取りが凶ならば準備も進められず、なかなか日程がままならないのでした。
関連:
紫式部の夫・藤原宣孝はなぜ亡くなったのか?死因はまさかの!藤原行成『権記』によると… 【光る君へ】
長保3年(1001年)4月25日、紫式部の夫である藤原宣孝が病のために卒去しました。病については諸説あり、当時の流行り病いであろうと考えられています。そんな中、藤原行成の日記『権記(ご…
宣孝が劇中どおり無呼吸症候群だったのかはさておき、彼が早々に亡くなったのは、高齢の身体に激務が響いたのかも知れませんね。
第28回放送「一帝二后」
次週でまひろが「逝かないで」と言っていたので、一気に長保3年(1001年)まで進むのでしょうか。
宣孝と円満な紫式部が見たかったですが、それはまたいつかのお楽しみにしましょう。
さて次回はサブタイトル通り「一帝二后」。一人の帝に皇后陛下と中宮陛下の后二人という、前代未聞の荒業を道長はやってのけました。
皇后陛下に祭り上げられた定子は長保2年(1001年)の暮れに第二皇女の媄子内親王(びし/よしこ)を出産するも、間もなく崩御されてしまいます。
果たして次週はどんな展開が待っているのか、目が離せませんね!
トップ画像: 大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより