宣孝の死亡フラグ?まひろの娘、実際は誰の子?ほか…大河ドラマ「光る君へ」7月14日放送振り返り:4ページ目
定子が生んだ皇子・敦康親王
七日丙戌 卯刻中宮産男子、前但馬守生昌三條宅、世云横川皮仙、……
※藤原実資『小右記』長保元年(999年)11月7日条
【意訳】11月7日の朝6:00ごろ、定子が皇子を産んだ。場所は三条にある平生昌(なりまさ。平惟仲の兄弟)宅、世にいう「横川の皮仙(かわひじり)」である。
……この横川の皮仙とはざっくり「出家者が産んだ子」「生まれるべきでない、祝福されない子」といった意味になります。
劇中でも定子が嘆いていましたね。ともあれ生まれたものは生まれたのです。
敦康親王は翌長保2年(1000年)に親王宣下を受けます。現代と異なり、天皇陛下の皇子であっても無条件で親王となる訳ではありませんでした。
これは一条天皇が定子との皇子に帝位を継承させたい意思の表れですが、同年の暮れに定子が崩御してしまいます。
後ろ楯のない敦康親王は彰子の養子として育てられ、はじめは道長も可愛がりますが、やがて彰子が皇子を産むと粗略にされていきました。
結局東宮(皇嗣)になったのは彰子が産んだ敦成(あつひら)親王。後の後一条天皇です。
正統な皇位継承者でありながら粗略にされた敦康親王に対して、人々は同情を寄せたと言います。
……御才(おんざえ)いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞおはしましし……
※『大鏡』
【意訳】(敦康親王は)才能があり、心ばえも素晴らしくあらせられた。
……道長の思惑によって皇位を継承できなかった敦康親王は風雅の道に生き、寛仁2年(1019年)12月17日に21歳で薨去されたということです。