自由民権運動の英雄・板垣退助の意外な過去!出世を目指した軍人から転身した理由とは

歴史 好き太郎

「自由民権運動」といえば板垣退助

板垣退助という名前を聞くと、自由民権運動「板垣死すとも自由は死せず」などの言葉をすぐに連想する人も多いと思います。

明治維新後の日本政界では、薩長の有力者が主要ポストを公然と牛耳っていました。これに対し、前時代的な体制では西洋列強に太刀打ちできないと不安を抱き、日本でも議会を開設しようと働きかけたのが自由民権派と呼ばれる人々です。

自由民権運動は、天下公論に基づく政治を求める運動として歴史教科書にも登場しますね。

特に板垣は愛国公党を設立し、国会の開設を求める意見書を政府に提出するなどしました。このことから、明治初期の政治運動を代表する人物として高く評価されることも少なくありません。

伊藤博文や大隈重信と並び、「憲政の三巨人」の一人として挙げられることもあるほどです。

それに「自由」という言葉との関係性から、板垣退助と言えばリベラルな文民というイメージがありますね。しかし、実は彼は生粋の軍人であり、もともとは軍部での出世を目指していた人物でした。

意外なことに、板垣は政治家としてではなく軍人としての活躍が目覚ましかったのです。

今回は、彼のそのあたりの経歴を辿ってみましょう。

軍人としての活躍

板垣が、土佐藩の上士(上級武士)出身であることは知っている人も多いでしょう。

そんな彼は幕末期に薩長の武力討幕を支持し、慶応4(1868)に土佐の勤王派を中心とする土佐迅衝隊を結成すると、東山道先鋒総督府参謀として自ら部隊を指揮しました。

戊辰戦争では常に最前線で活躍し、宇都宮城の奪還に成功するなどの功績を挙げています。

また日光では、旧幕軍と交渉して東照宮から撤退させたりもしており、新政府軍で最大級の戦果を挙げた人物と言ってもいいでしょう。彼を、近代日本陸軍の創設功労者の一人とする研究者もいます。

このように彼は生粋の軍人であり、維新後には軍事を統括する兵部省のトップ就任が確実視されていました。

そんな軍人気質の板垣が自由民権運動の活動家へと転向したのは、薩長との権力争いに敗れたからです。

2ページ目 山縣有朋との対立の構図

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了