道長の圧力に苦しむ日々…三条天皇の皇后・藤原娍子(演:朝倉あき)とはどんな女性だったのか?【光る君へ】
藤原済時の娘
藤原 娍子(ふじわらのすけこ)
朝倉 あき(あさくら・あき)藤原済時(ふじわらのなりとき)の長女。居貞親王(いやさだしんのう)のもとに東宮妃として入侍(にゅうじ)。
※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイト(登場人物)より
NHK大河ドラマ「光る君へ」皆さんも観ていますか?
一条天皇の春宮(とうぐう。皇嗣)となった居貞親王(のち三条天皇)の妃・藤原娍子(ふじわらの せいし/すけこ)。彼女はどんな女性だったのでしょうか。
今回は藤原娍子の生涯をたどってみたいと思います。
誕生から皇后となるまで
藤原娍子は天禄3年(972年)に藤原済時(なりとき)と源延光女(のぶみつのむすめ)の間に誕生しました。
父から箏(琴)の手ほどきを受け、名手として知られたそうです。
年頃になると、はじめ花山天皇から入内の要請がありましたが、済時はこれを辞退。大事な娘に何をされるか分からない不安があったのでしょうか。
そんな事もあって、21歳となった正暦2年12月1日(992年1月8日)に居貞親王の元へ入侍し、春宮妃となります。
美貌で親王からの寵愛も深く、敦明親王(小一条院)はじめ四男二女に恵まれました。
藤原娍子の子供たち
- 敦明親王(あつあきら)
- 敦儀親王(あつよし)
- 敦平親王(あつひら)
- 当子内親王(とうし/まさこ)
- 禔子内親王(しし/ただこ)
- 師明親王(もろあきら)
人生これからと言う矢先、長徳元年(995年)に大流行した疫病で父の済時が亡くなってしまうのです。
当時は父親が生きて(かつ現役で)いることが出世における死活問題。後ろ楯を失った娍子の前途に暗雲が漂い始めました。
居貞親王の寵愛だけが恃みでしたが、寛弘8年(1011年)に居貞親王が皇位を継承すると娍子は女御となります。
その住まいから宣耀殿女御(せんようでんのにょうご)と呼ばれた娍子は、寛弘9年(1012年)に従四位下、ついで皇后となりました。
この辺りが人生の絶頂だったと言えるでしょう。
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