そりゃ祟りたくもなる…平安時代、毒親育ちの崇徳天皇が”最恐の祟り神”になってしまった理由
「天皇一族は、民の上に立つ資格を持たない下賎だ。
私は自ら天狗の妖怪となって、天皇一族を今の地位から引き摺り下ろす。
そして民の国となるまで、天皇家を呪い続ける。」
自らの舌を噛み切り、その血で記した壮絶な呪いの言葉は、近代になってなお天皇家を脅かし続けました。
血文字の主は、日本三大怨霊の中でも最恐と言われる祟り神、崇徳天皇(すとくてんのう)です。しかし一体何が、自分自身も皇族の一人である崇徳天皇を、ここまで駆り立てたというのでしょうか。
一家断絶したまま息絶えた崇徳天皇
崇徳天皇は自らの弟との 戦に敗れ、島流しされた先である讃岐国で、犯罪者のまま生涯を終えています。和歌や写本といった文化芸術を愛した人生、享年46歳でした。
父である鳥羽上皇は、崇徳天皇を忌み嫌った毒親であると言われています。またそんな毒親の所業を真似たのか、弟の後白河天皇も崇徳天皇をひどく嫌っていました。
それでも家族の絆を信じていたのでしょうか。崇徳天皇は、二人に歩み寄ろうとする姿勢をあきらめることはありませんでした。
本当の父は祖父だった!?
鳥羽上皇が崇徳天皇を冷遇した理由は、崇徳天皇の出生に端を発すると言われています。崇徳天皇は鳥羽上皇の息子ではなく、鳥羽上皇の妻と鳥羽上皇の父である白河法皇の間にできた子だというのです。
それを裏付けるように、鳥羽上皇は崇徳天皇を叔父子と呼んでいます。叔父子とはつまり、妻と父(白河法皇)の子であるという意味です。
また白河法皇は崇徳天皇非常に可愛がっていました。崇徳天皇が5歳の時には、当時の鳥羽天皇上皇に退け、崇徳天皇に譲位させています。
こうして崇徳天皇と鳥羽上皇の親子関係は、破綻に向かって加速していきました。
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