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伊藤博文よりも「初代宰相」にふさわしい?明治初期の政治家・三条実美は隠れた大物政治家だった

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決して「無能」ではなかった三条

さて、熾仁親王を総裁とする体制は、1868年には早くも廃止。三条と岩倉の二人は、公職の最高位である「輔相」となりました。この職は、諸大臣の上に立ち、天子を助けて政治を行うという立場です。

そして翌年の明治2年7月8日には太政官制が成立し、右大臣に三条が、大納言に岩倉(と徳大寺実則)が就任して参議を束ねることになりました。

さらに明治4年には、三条は太政大臣となります。明治18年に内閣が発足するまでの間、彼はなんと14年間もその職に就いていました。

つまり彼は、安定しない体制の中で肩書はくるくる変わったものの、内閣成立までの18年間もの間、天皇直属の「宰相」として政府の最高責任者を務めたのです。

もともと三条実美は、五摂家ではないものの同レベルである西園寺家と同じランクの三条家の出身。幕末期は過激な尊王攘夷思想の持ち主でした。

一度は政変で敗れて長州・大宰府へと落ちたこともありましたが、王政復古で赦されて京へ復帰したという経歴の持ち主です。彼の復権を主導したのが岩倉具視で、二人は二人三脚で政府を支え続けたのでした。

ただ、政府内で征韓論による対立が激しくなった際はノイローゼで倒れ、最終的な決断を岩倉に丸投げするなどしたため、無能呼ばわりされることも多い人物です。

岩倉具視が有能すぎたためこうした評価になってしまう面もあるでしょう。しかし明治維新直後は、実は薩長ではなく公家勢力や諸侯たちなどが政治の実権を握っていました。その中で、18年も天皇をサポートし続けた三条の力量は軽視されるべきではありません。

例えば、東京遷都は大久保利通によるものだというデマがありますが、あれは司馬遼太郎の作り話です。「朝廷は江戸に置いた方が日本は安定する」と考えて決定したのは三条実美です。

参考資料:
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年・PHP新書

 

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