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伊藤博文よりも「初代宰相」にふさわしい?明治初期の政治家・三条実美は隠れた大物政治家だった

伊藤博文よりも「初代宰相」にふさわしい?明治初期の政治家・三条実美は隠れた大物政治家だった

新体制の中の三条と岩倉

大政奉還から王政復古までは二か月間の空きがありましたが、まだこの時明治新政府は体制が整っていませんでした。実質、まだ江戸幕府が政府として機能していたのです。

この時期、政治の中心的存在だったのはもちろん天皇であり、その下には摂政の二条斉敬、征夷大将軍の徳川慶喜、老中筆頭の板倉勝静がいるという構図でした。この時、誰が「宰相」だったのかは何とも言えません。

そして1867年12月9日に王政復古の大号令が出て、新政府が発足します。これに伴い摂関・将軍の職は廃止となり、かわりに総裁・議定・参与の三つの職が設けられました。

このうち、総裁に任命されたのは有栖川宮熾仁(ありすがわみやたるひと)親王です。議定は10名、参与は20名が任命されました。

熾仁親王は、かつて皇女和宮の許嫁でもあり、鳥羽・伏見の戦いでは東征大総督も務めた人物です。彼は総裁として、将軍と摂政の権限を引き継いだ形になったのでした。おそらく彼こそが、近代日本で初の宰相だと言っていいでしょう。

この時に副総裁だったのが、三条実美と岩倉具視です。

そういえば岩倉具視も、幕末期のビッグネームでありながら、明治時代以降は政治家として何をやったのかあまり知られていないところがありますね。実は彼は、新政府発足直後のこの段階で政府の役職に就いていたのです。

後述しますが、明治新政府発足直後は、薩長はほとんど政府内で権力を持っていませんでした。むしろ政府内で政治を取り仕切ったのは、岩倉や三条を始めとする公家出身の政治家たちだったのです。

3ページ目 決して「無能」ではなかった三条

 

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