「錦の御旗」は戦況に関係なかった?鳥羽・伏見の戦いで「錦の御旗」がもたらした本当の影響とは?【前編】:2ページ目
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幕府軍は装備こそ近代的だったものの、旧態依然としたやり方を好んでいたようで、戦国時代以来の密集戦術を採用していました。
しかし激戦が繰り広げられた鳥羽街道は道幅がとても狭く(現在もそうです)、さらに湿地帯が多いという難点もありました。
広大な平地ならともかく、このような状況では、1万5千人の兵からなる大軍の利も活かしようがありません。
新政府軍による「ダメ押し」
これに対して新政府軍は、正反対の散兵戦術を採用しています。そして鳥羽の城南宮や伏見の御香宮に陣を構えると、アームストロング砲などで十字砲火を浴びせていったのです。
これでは、錦の御旗も何もありません。鳥羽伏見の戦いでは最初から新政府軍の方が有利に事を進めていたのです。
錦の御旗は、起死回生のための逆転の一手などという形で用いられたのではなく、あくまでもダメ押しで投入されたと考えるのが自然でしょう。
とはいえ、戦場に掲げられた錦の御旗が何の影響も及ぼさなかったわけではありません。【後編】では、この錦の御旗が掲げられた経緯と、それがもたらした本当の影響は何だったのかを解説します。
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
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