戦国時代になんとハーフの武将がいた!その風貌から「人鬼」と恐れられた戦国武将・和仁親宗と一族の悲劇:3ページ目
和仁氏の悲劇的な最期
約10倍の兵力差にもかかわらず、親宗たちは2ヶ月間耐え忍びます。和仁氏の必死の抵抗に崩すため、恵瓊は辺春親行を調略したことで親実が討ち取られました。
親実の死をきっかけに、鎮圧軍が田中城に押し入ります。親宗は兄の親範と奮戦しますが、田中城は落城しました。
そして、親範は敵兵を両脇に抱えて城壁から飛び降りて戦死、親宗は母が眠る南蛮毛を目指して敵兵を斬り倒し、行方不明になったと伝わっています。
他説では南蛮毛に辿り着き、その地で自害したともいわれています。ちなみに、裏切った親行は一揆鎮圧後に処刑されました。
和仁氏の血は現代まで続く
肥後国人一揆後、和珥氏の末裔・和仁氏は滅亡しました。
しかし、親宗の次兄・十郎三郎は立花宗茂の家臣で立花四天王の1人・小野鎮幸の義弟である小野統実として和仁氏の血を後世まで残しています。