戦国時代になんとハーフの武将がいた!その風貌から「人鬼」と恐れられた戦国武将・和仁親宗と一族の悲劇:2ページ目
父から人鬼と呼ばれる
母を失った親宗は、幼少期より父に疎まれて過ごしました。
他の兄弟である長兄・和仁親実(わに-ちかざね)や三兄・親範と違い、「顔が赤く、目は光り輝き、手足は熊のごとく力強く、動きが俊敏」と異質な見た目だったことから実の父から人鬼と呼ばれていました。
やがて、大友氏が衰退すると親続は龍造寺氏に従属します。そして、天正12年(1584)に龍造寺隆信が沖田畷の戦いで戦死すると、家督を譲られた親実は島津氏に仕えました。
その後は天正15年(1587)の九州征伐を経て、豊臣秀吉に仕えています。
肥後国人一揆の始まり
九州征伐後、肥後国は佐々成政の支配下に置かれました。肥後には52人の国人がおりましたが、成政は国人たちの同意を得ないまま検地を実施。
そのため、国人衆からの不満が爆発し、肥後国人一揆が勃発しました。
成政に抵抗した隈部親永(くまべ-ちかなが)に呼応して親実や親宗は居城の田中城に籠城。
その数は900人で親宗の三兄・親範や親実の妹婿・辺春親行(へばる-ちかゆき)も一緒でした。
対する鎮圧軍は、小早川秀包(ひでかね)を総大将とした安国寺恵瓊や立花宗茂を含んだ1万人で田中城を包囲しました。