藤原為時の出世
大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の『源氏物語』の作者・紫式部ですが、その父である藤原為時は、宮中の政争に巻き込まれて不遇の人生を送っています。
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「この子が男に生まれていれば…」父・藤原為時を嘆かせた、幼少期の紫式部の天才エピソード【光る君へ】
一瞬だけ彼に訪れた栄光の頂点と言える時期は、式部が15歳となった984年のことです。当時の円融天皇は、17歳だった師貞親王に譲位。師貞親王は花山天皇として即位しました。
これにより、もともと師貞親王から信頼されていた為時は、式部丞・六位蔵人に任ぜられます。これにより、為時はいっときの「我が世の春」を謳歌することになりました。
この時期の為時は、藤原北家の本流である藤原兼家の子・道兼から宴に招待され、和歌を詠んだりしています。
また、漢詩人としても歌人としても有名な具平親王の詩宴にも、当時の著名な文人たちに交じって参加。詩を詠じたりしていました。
この藤原道兼の宴席で、為時が詠んだという歌が以下のものです。
遅れても 咲くべき花は 咲きにけり
身を限りとも 思ひけるかな
現代語に訳するなら、「咲き遅れている花も、咲くべきものであれば必ず咲く。自分にもう出世の目はないと思っていたものだが」とでもなるでしょうか。
ようやく出世した為時の喜びようが分かる内容ですね。