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日本初の従軍記者はマルチ・プレイヤー。実業家、教育者としても活躍した岸田吟香(ぎんこう)とは【前編】

日本初の従軍記者はマルチ・プレイヤー。実業家、教育者としても活躍した岸田吟香(ぎんこう)とは【前編】

1868(明治元)年、『横浜新報もしほ草』という名前の新聞が発行されました。発行人は、アメリカ人の E.バン・リードと岸田吟香(ぎんこう)という2人の人物。70年3月まで 42編を発行した木版印刷の小冊子型新聞として、居留地を中心とした多くの人に情報を発信し続けました。

吟香は、1833(天保4)年6月15日生まれ。吟香は多才な人物だったようで、様々なことに手を染めています。

初めは、ローマ字で知られるアメリカ人宣教師・ヘボン博士ことヘプバーンのもとで、『和英語林集成』の編集に協力していました。それもこれも、眼病を患い、箕作秋坪の紹介でヘボンを訪ねたことがきっかけです。1863(文久3)年4月のことでした。

このときに抱いた印刷への興味、そしてアメリカ帰りのジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵の元で英語を学んだことによって実を結び、外国新聞を飜訳する『外国新聞』を手掛けることになります。

「横浜新報もしほ草」では、新しい文明や政治制度の紹介、封建的遺風の改良など日本の転換期に種々の貢献をしました。横浜居留地で発行されていたために、明治政府の干渉を受けなかったことも大きく影響しました。

文筆活動の傍ら、諸事業を拡大し実業家としても活躍し、ヘボンより処方を教授され眼薬「精錡水」の販売を始めました。

2ページ目 西郷従道の率いる軍隊に従い取材

 

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