薩摩藩vsイギリス「薩英戦争」実は善戦していた薩摩藩!そのうえイギリスとも仲良しに

歴史 好き太郎

薩英戦争とは

幕末期の日本で薩摩藩と言えば、誰もが「長州藩とともに討幕を推し進めた攘夷派の代表格」というイメージを持っていることでしょう。

しかし、そんな薩摩藩の動向をつぶさに見ていくと、実際には最初から討幕派でもなかったし、攘夷についても途中で政策の転換があったことが分かります。

では、同藩が「異敵は討ち払うべし」という攘夷政策を転換し、開明政策に転じたのはなぜだったのでしょうか。その大きな理由のひとつが、1863年に発生した薩英戦争でした。

簡単におさらいしておくと、薩英戦争は薩摩藩とイギリスとの間で起こった戦闘です。

※↓合わせて読みたい

大名行列の習慣を知らないイギリス人を無礼討ち、江戸時代に起きた「生麦事件」とは?

1862(文久2)年8月、「生麦事件(なまむぎじけん)」が起こります。3人のイギリス人がひとりの婦人に付き添って東海道を海で進み、横浜の生麦村を通過しようとしていました。このとき、不幸にも江戸から京都…

イギリスは、薩摩藩から、生麦事件における賠償金の支払いと犯人の引き渡しを拒否されました。そこで、横浜に停留していた七隻の軍艦を鹿児島湾に派遣し、湾内で会談を開きます。しかしこれは失敗しました。

そこで、イギリス艦隊は薩摩藩の所有していた船を賠償金代わりに接収しようとします。これに薩摩藩が砲撃を始めたことで、薩英戦争の火ぶたは切って落とされました。

この戦闘はおよそ二日間続きます。薩摩藩の砲台は旧式だったため、最新式のイギリス軍艦には勝てず敗北。イギリスが勝利を収めました。

以上が薩英戦争のいきさつですが、これまでは薩摩藩がボロ負けしたというイメージが一般的でした。しかし最近では、意外とイギリスに対して善戦したことが分かっています。

2ページ目 善戦できた二つの理由

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了