その時、歴史が動い…てない!新選組 大奮闘の「池田屋事件」は作り話だらけ?禁門の変とも無関係

おなじみの大事件

日本史、特に幕末の時代が好きな人には、「池田屋事件」について今さら説明する必要はないでしょう。

池田屋事件は、長州藩の過激派の志士たちが京への放火と天皇の拉致を計画している――という情報をつかんだ新撰組が、志士たちが会合していた池田屋に乗り込み、激しい戦闘となって数十名を捕縛あるは斬殺したものです。

しかし、この事件に関する伝説めいたさまざまな逸話のほとんどは、現代では作り話だったことが明らかになっています。池田屋事件そのものがあったのは間違いないのですが、その実態は謎だらけと言ってもいいでしょう。

まず、事件の流れをおさらいしてみます。

当時は、1863年の政変によって、長州藩士をはじめとする尊王攘夷派が京都から追い出されたところでした。そこで、長州藩士たちが京都でテロを起こすのではないかという噂が流れていました。

この頃は在京中の将軍が江戸に帰還し、新撰組も、京の警備が手薄になることを危惧していました。そんな中で上記の不穏な噂が流れたことから、彼らは警戒を強めます。

この頃の新撰組の動向について、永倉新八は後年その回想録の中で「新撰組は会津の命のまにまに巡邏を名として諸藩の動静をさぐり幕府に不利なものとわかれば暗殺、捕縛と高圧手段を加えた」と記しています。

そして1864年6月5日の早朝に大きな動きがありました。近江国郷士・古高俊太郎が放火の容疑で捕縛されたのです。薪炭商・桝屋喜右衛門と名乗っていた古高ですが、新撰組による拷問で、自分は長州藩士であることを自白します。

古高俊太郎邸跡(Wikipediaより)

さらに彼は、強風の吹く6月20日に京都御所に放火して松平容保と中川宮朝彦親王を襲い、孝明天皇を長州へ拉致するという計画が進んでいることも「自白」したのでした。

その日の夜、新撰組はさっそく集会場所とされた池田屋へ向かいました。そして血みどろの激闘となったのです。

以上が、有名な池田屋事件の顛末です。

2ページ目 実は作り話だらけ?

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了