その時、歴史が動い…てない!新選組 大奮闘の「池田屋事件」は作り話だらけ?禁門の変とも無関係:2ページ目
作り話だらけ?
で、現在いろいろと疑問視されていることの一つが、そもそも尊王攘夷派による京市中への放火と天皇の拉致計画は、本当にただの噂だったのではないか? ということです。
この計画が本当だったとすると、あまりにも杜撰です。内通者がいるわけでもないのに、御所の天皇の居場所を把握するのは至難の業ですし、決行日の6月20日に本当に強風が吹く保証もありません。
近藤勇は、古高俊太郎の自白をもって、この噂は正しかったと述べています。しかし実際の供述調書には放火の計画しか書かれていませんし、そもそも厳しい拷問によって引き出した自白は、現代の視点で見ればとても「れっきとした証拠」とは言い難いものです。
よって、古高の自白は、尊王攘夷派を一掃しようと目論む新撰組による捏造だったのではないかという説もあるほどです。
ちなみに、当時の池田屋に志士たちが集まっていたのは、古高を奪還するための会議を開いていたからでした。
彼ら志士たちと新撰組の戦闘の詳細も不明です。近藤の回想によると、当時池田屋に突入したのは近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助・近藤周平の五名とあるのに対し、他の隊士の証言では顔触れが異なっているのです。何が本当なのか全く分かりません。
また、池田屋に突入した近藤が最初に斬った志士・北添佶磨が階段を転がり落ちるシーンは有名ですが、北添は実際には自刃したことが明らかになっています。さらに、沖田総司が吐血したというエピソードも、記録としては残っていません(永倉新八の回想録では、「持病の肺患が再発して倒れた」とある)。
池田屋事件は、新撰組が登場する娯楽作品の題材として、昔から頻繁に取り上げられてきました。現在「名シーン」と言われているものは、ストーリーを盛り上げるために創作あるいは脚色された演出だと考えていいでしょう。