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日本憲政史上の「負の大物」のひとり・近衛文麿とは何者だったのか【後編】

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戦後も大臣として交渉

その後は小磯国昭内閣を経て、鈴木貫太郎内閣によって終戦となります。玉音放送が流れた1945(昭和20)年8月15日の二日後に内閣は総辞職し、後任の首相は初の皇族出身者である東久邇宮稔彦王となります。

ここで、近衛は副総理格である無任所相として入閣しました。

さすがにこの時の彼の入閣は風当たりが厳しいものでした。単なる名門出身で人脈が広いというだけで、何の功績もないどころか日本を泥沼の戦争に導いたのだから当然です。もはや、かつての人気は完全に失われていました。

それでも戦後処理では一定の役割を果たしており、国務大臣としてマッカーサーから憲法改正の検討を依頼されたりしています。

もっともマッカーサーは昭和天皇と個人的な信頼関係を築いていたので、近衛の存在は不要だったと言えるでしょう。

悲劇の自決

近衛に、占領軍から逮捕指令が発せられたのは12月6日のことです。その出頭期限である12月16日の未明、近衛は自宅で青酸カリを飲み服毒自殺しました。享年54歳。

遺書には「僕は志那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが、いわゆる戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受けることは耐え難い事である。」と書かれていました。

ちなみに、東條英機も9月11日、戦犯として逮捕される直前にピストル自殺を図りますが失敗に終わっています。

武人でありながら自決に失敗するという醜態を晒した東條は、世間から「東條は腹の肉をつまんで銃を撃ったんだろう」などと揶揄されます。これに比して、五摂家筆頭の貴公子でありながら見事に自決を遂げた近衛の方が、ある意味で世間からは高く評価されました。

近衛の評価が戦後もあまり悪くなかったのは、この「潔く自決した悲劇の宰相」というイメージが強いからでしょう。しかし、昭和期末に昭和天皇が近衛のことを酷評していることが明らかになり、これがきっかけで彼への評価は大きく変わります。

現在では、「国民政府を相手にせず」の宣言で満州事変への対応に失敗して日中戦争の泥沼に足を踏み入れ、その後も陸軍の暴走を抑えられず、またアメリカとの関係も修復できないまま内閣を二度投げ出したとして、昭和の政治史に悪名を刻んでいます。

彼は名門望族・頭脳明晰・容姿端麗と三拍子揃っており、性格も決して悪くはありませんでした。それだけに国民からの期待も高かったのですが、非常時の国家のリーダーとしては致命的なことに思慮深いように見えて押しに弱く、そして行動が軽率でした。それでいて後になって必ず後悔する、「軽薄な貴公子」というのが、現代の多くの評者の間での共通した評価です。

参考資料
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年、PHP新書
宇治敏彦/編『首相列伝』2001年、東京書籍
サプライズBOOK『総理大臣全62人の評価と功績』2020年
倉山満『真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任』2017年、宝島社
倉山満『学校では教えられない歴史講義 満州事変』2018年、KKベストセラーズ
井上寿一『教養としての「昭和史」集中講義』2016年、SB新書

 

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