日本憲政史上の「負の大物」のひとり・近衛文麿とは何者だったのか【中編】
「国民政府を相手にせず」
【前編】では、近衛文麿が政治の世界に足を踏み入れて第一次近衛内閣を組閣し、満州事変が勃発したところまでを見てきました。その後、混迷する日本の政治情勢の中で近衛はどのように立ち回ったのでしょうか。
前編の記事はこちら
日本憲政史上の「負の大物」のひとり・近衛文麿とは何者だったのか【前編】
生まれは「五摂家筆頭」の近衛家戦前に活躍(?)した近衛文麿は家柄よし、見た目よし、頭もよしと三拍子揃った人物で、首相には二度指名され内閣を三度組閣しています。「大物政治家」と言って差し支えないでし…
満州事変をきっかけに、日中戦争が始まります。早めに和平にこぎつけるという選択肢もあったのですが、近衛は陸軍に押されて1938(昭和13)年1月に有名な「近衛声明」を発表し、ここで「国民政府を相手にせず」と和平を拒絶する宣言を出します。
和平が絶望的になったのは、陸軍の独走も大きな原因でした。一時はドイツ大使のトラウトマンを仲介にした和平交渉も試みられたのですが、陸軍が勝手に南京を占領したことで、これも潰されてしまったのです。
その後も、軍のさまざまな勢力が勝手に動いて功を競いますし、外相の広田弘毅はそれを追認するだけなので役に立ちませんでした。
近衛は状況の打破をめざして慌てて内閣改造を行いますが、軍に毅然とした態度を示せないまま退陣します。
ちなみに、前述の近衛声明はその後も二回出されています。二度目の声明では、日本を盟主として東アジアに大規模な経済圏を作るという内容の「東亜新秩序建設」を発表しました。ここで日中戦争の意味・性格が微妙にずらされたことで、和平の余地ができたと言えるでしょう。
そして三度目の声明では、中国と「善隣友好・共同防共・経済提携」という原則で関係を結ぶことを宣言しましたが、これは結局うまくいきませんでした。