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日本憲政史上の「負の大物」のひとり・近衛文麿とは何者だったのか【中編】

日本憲政史上の「負の大物」のひとり・近衛文麿とは何者だったのか【中編】:2ページ目

第二次近衛内閣のスタート

第一次内閣退陣後は枢密院議長の職にあった近衛ですが、第二次近衛内閣への期待は相変わらず高く、また彼自身も再登板に向けて新体制運動に取り組んでいました。そしてその後も三つの内閣が短期間で次々に退陣し、また近衛に出番が回ってきます。

近衛は1940(昭和15)年7月22日に、満を持して第二次内閣をスタートさせました。この時陸相に起用されたのが東條英機、外相に起用されたのが松岡洋右です。

この時すでに日中戦争は泥沼の様相を呈していました。元々日本の仮想敵国はロシアでしたが、ロシアと戦うには中国に拠点を置かなければならないという発想で満州などに進出したのに、今度は中国侵略を許さないという立場のアメリカと一触即発の状態になっていたのです。

第二次内閣では、まず日独伊三国同盟に調印して、さらに挙国一致の新体制である「大政翼賛会」を発足。これにより政党は全て解散しました。さらに翌年には日ソ中立条約を締結し、彼の構想する、日独伊ソの4国ブロックを築いてアメリカと対峙するという計画が実現に近づきます。

ただ、アメリカと戦争をしても資源や戦力の面で勝ち目がないのは明らかで、近衛は並行して対米交渉を続けていました。ハワイでルーズベルト大統領と首脳会談を行う構想もあったと言われています。

3ページ目 第三次内閣の放棄

 

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