最後はどうなった?長いものに巻かれ続けた織田信雄の人生をご紹介【どうする家康】:3ページ目
徳川に対抗した後に仕える
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍に味方したことで再度改易処分が下されます。その後は秀吉の子・秀頼の援助を受け、大坂城下で生活しました。
慶長19年(1614)に起きた大坂冬の陣の際には信雄の従兄弟・織田頼長が秀頼を大坂城から追い出し、信雄を総大将とする動きがあったようです。
しかし、信雄は大坂城を退去し、京都に移り住んだことで豊臣家を見限ったことがうかがえます。
大坂の陣後は家康より大和国宇陀郡(現在の奈良県)と上野国甘楽郡(現在の群馬県南西部)の5万石を与えられました。
その後は京都で隠居し、徳川家光より茶会への招待や鷹狩を行い、悠々自適に隠居生活を満喫していました。
そして、寛永7年(1630)に73年で死去。後々、信雄の領地相続を巡って子どもたちの相続争いが起き、信雄の詰めの甘さが露呈する結果となりました。
最後に
父が戦国時代に新しい風を吹き起こした革命児だったので、その子だった信雄は自分のその力があると思い込んでしまったと思います。
それ故に第一次天正伊賀の乱や秀吉との対立といった無謀とも言えることができたのだと考えられます。
しかし、敵わないと見るや対抗せず、従属してしまう身のこなしの軽さは信雄の良い所。長いものには巻かれたことで江戸時代では自由に過ごせたので、ある意味信雄の選択は正解だったのかもしれませんね。
トップ画像(右):NHK大河ドラマ「どうする家康」公式HPより