最後はどうなった?長いものに巻かれ続けた織田信雄の人生をご紹介【どうする家康】
長いものには巻かれる。この言葉は、勝ち目のない相手には抵抗せず従った方がいい意味を持つことわざであり、大河ドラマどうする家康では、キャッチコピーに使われた人物がいました。
その人物は織田信雄で、キャッチコピーは「長いものに巻かれ続ける、父と真逆の人生」。
今回は、長いものには巻かれ続けて生きた織田信雄の生涯をご紹介します。
織田信長の息子として覇道に貢献(?)した
信雄は永禄元年(1558)に生まれ、幼名は茶筅丸でした。また、同時期に信孝も生まれ、生まれ順的に信雄が三男となる予定でした。
しかし、信孝の母親の身分が低かったことが理由で信雄が次男、信孝が三男として位置づけられます。
そして、永禄12年(1569)には伊勢国(現在の三重県北中部)に勢力を持つ北畠家の養嗣子となります。
北畠家の家督を相続後は、天正4年(1576)に養父の北畠具教(きたばたけ-とものり)や家臣たち14人を謀殺する三瀬の変を起こし、伊勢国を掌握。
勢いを得た信雄は、隣国の伊賀国(現在の三重県西部)も掌握できると高を括り、信長に無断で伊賀国へ侵攻します(第一次天正伊賀の乱)。
この戦いで勝利していたのならいいものの、結果は大敗。無断で兵を率いたことと戦いの敗北が信長の怒りを買い、親子の縁を切ると言われる程の叱責を受けました。
その後は信長が軍を率いた第二次天正伊賀の乱で伊賀国を平定されています。