最後はどうなった?長いものに巻かれ続けた織田信雄の人生をご紹介【どうする家康】:2ページ目
豊臣秀吉と対立するも家臣となる
天正10年(1582)に起こった本能寺の変の際、信雄は明智光秀に対抗すべく進軍しますが、撤退しています。理由として、信孝の四国征伐に兵をさき、2500人程の兵数しかなかったことがあげられます。
清須会議では、兄・信忠の後継者になる目論見が外れ、甥の三法師の後見人となりました。また、尾張(現在の愛知県西部)・伊賀・南伊勢の100万石も相続しました。
以後は豊臣秀吉に取り入りますが、賤ヶ岳の戦いの勝利で力をつけた秀吉と対立。信長の盟友だった徳川家康と同盟関係を結び、戦う姿勢を見せました。
対立した理由は、裏切った家臣がいたことと天正12年(1584)に年賀の礼に来るよう命令されたことがあげられます。
そして、同年には織田徳川連合軍と秀吉が戦った小牧・長久手の戦いが勃発。戦いでは織田徳川軍が勝ったものの、総大将であった信雄が調略と領地侵攻を受け、無断で講和を結んだことで最終的に秀吉の勝利で幕を閉じました。
戦後、信雄は秀吉の家臣となり、富山の役や小田原征伐に従軍しました。しかし、小田原征伐後の論功行賞で尾張国から移封されることを拒否。
これが秀吉の怒りを買い、改易処分が下され、下野国烏山(現在の栃木県東部)や伊予国(現在の愛媛県)へ流罪となりました。
文禄元年(1592)には家康の仲介もあり、御伽衆として秀吉に再度仕えました。