電光石火の光秀討伐!羽柴秀吉は「中国大返し」をいかにして成し遂げたか

高松城攻めから一転

かの豊臣秀吉が天下人となった大きなきっかけの一つが、山崎の戦い明智光秀を破り、織田信長の弔い合戦を制したことでした。

しかしその直前に、秀吉はわずか一週間で高松城から上洛するという離れ業を成功させており、これはのちに中国大返しと呼ばれるようになりました。これがあったからこそ、彼は光秀軍を破る場に駆けつけることができたのです。

中国大返しの経緯は次の通りです。1582年6月2日に本能寺の変が起き、その情報は4日未明に当時の羽柴秀吉にもたらされました。彼はその時、中国を征服していた毛利氏を征伐するため備中の高松城を攻めているところでした。

彼は急遽、高松城攻めをやめて光秀を討つべく上洛します。彼は6日(あるいは5日という説も)には出発しました。

ちなみにこの時、毛利氏から追撃されないかということが秀吉の最大の懸案でした。しかし毛利軍はこの時点で信長の死を知らなかったか、あるいは本能寺の変の謀反の詳細が不明だったなどの理由から、追撃する意志はなかったようです。

3ページ目 「大返し」はいかにして成ったか

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