外国人の船乗り相手に売春も。昭和初期まで存在した”あいまい宿”「チャブ屋」とは?

雲川ゆず

日本の歴史において、色っぽい話が思い浮かぶのは吉原などの遊郭ではないでしょうか。ほかにも、さまざまな場所で「遊び」は行われていました。

今回の記事でご紹介するのは、「メリケンお浜」と呼ばれたとある娼婦。彼女の人生は波乱に満ちていました。

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「チャブ屋」とは?

「メリケンお浜」の話をする際にまず前提として押さえておきたいのが「チャブ屋」というものです。「チャブ屋」とは、1860年代から1930年代において、日本に住む外国人や、船員を相手にした「あいまい宿」の俗称です。

あいまい宿とは、料理屋・茶屋・旅館などに見せかけて売春をする場所のことです。ただし、食事やダンスなどの目的で来る外国人もいたため、売春宿と言い切ることはできません。

もともとチャブ屋も、横浜の山手・根岸・本牧地区を結ぶ外国人遊歩道が建設されたのち、休憩用の茶屋が作られ、女性が和洋酒の一杯売りをしていました。横浜のチャブ屋が有名ですが、函館や神戸といったほかの港町にも存在したと言われています。

2ページ目 漁師の娘から娼婦へ

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