虚々実々!若き日の徳川家康が臨んだ「三方ヶ原の戦い」にまつわる逸話の真相は?【後編】

「空城の計」の真相は?

【前編】では、武田信玄若き日の徳川家康が激突した三方ヶ原の戦いが起きた経緯を解説しました。

虚々実々!若き日の徳川家康が臨んだ「三方ヶ原の戦い」にまつわる逸話の真相は?【前編】

有名だけど作り話が多い徳川家康の生涯を追っていく上で外せないのが、1572年に起きた三方ヶ原の戦いです。かの武田信玄と、「鳴くまで待とう」のイメージとは違う血気盛んな青年時代の家康が激突したという…

三方ヶ原で2万5千の武田軍に対して1万の軍で挑んだ家康は、あっという間に惨敗。家康の盾になって多くの重臣たちが戦死し、家康はなんとか浜松城へ逃げ帰ります。

この時に使われたのが、城門を開け放って敵の警戒心を煽る「空城の計」だったと言われています。

この時、家康は豪胆にも城に逃げ帰るとぐっすり寝てしまった、そして武田軍は『三国志演義』さながらに空城の計に引っかかり、城攻めを警戒していたところで不意を衝かれた……とよく言われます。

しかし、後の江戸幕府公認の資料である『武徳大成記』『武功雑記』によると、城に逃げ帰った家康は、まず「自分は無事である」ことを城内で家臣に必死にアピールしていたそうです。しかも偽物の信玄の首級を用意し、ウソの勝利宣言までしていました。

そして、徳川軍はまだ抗戦可能だということを敵に見せつけるために、銃を城外に撃ち放ちます。それを見た敗残兵たちもどんどん城に戻ってきました。彼らが城に戻れるよう、浜松城の門は開けてあったのです。

また、銃をパンパン撃たれている状態では、武田軍もうかつには近寄れませんでした。

以上の経緯を、あたかも家康が諸葛亮公明のように「空城の計」をやってのけたかのように後世に伝えたのは、『四戦紀聞』という史料です。これはもともと家康礼讃を目的とした創作物語です。

3ページ目 失禁エピソード、そして「しかみ像」

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