【考察】実朝暗殺の黒幕はまさか実衣(阿波局)?阿野時元の謀叛と『吾妻鏡』が書かない姉妹の対立【鎌倉殿の13人】:3ページ目
政子と阿波局の姉妹対立が、時元謀叛の原因だった?
以上が『吾妻鏡』の伝える謀叛のあらまし。どうして時元は話し合いでなく、謀叛を起こした(※謀叛によってしか鎌倉殿の地位を継承できる可能性がない状況だった)のでしょうか。
実際のところは時元本人に聞くよりないとしても、母(阿波局)と伯母(政子)の対立がその一因ではないかと考えられます。
実朝が生きていた時から、実朝への方針をめぐって乳母である阿波局と実母の政子が対立していたのではないでしょうか。
ここでもし時元が鎌倉殿となった場合、政子は鎌倉殿へ対する影響力を完全に失われてしまいます。
政子は建保6年(1218年)に上洛した際、藤原兼子(演:シルビア・グラブ)と会談。頼仁親王(よりひとしんのう。後鳥羽上皇の子で、実朝には義理の甥)を次の鎌倉殿にしようと根回しをしていました。
皇族将軍であれば武家の棟梁たる権威・正統性はもちろんのこと、他の御家人たちとのつながりが薄いため、自分たちだけが直接影響力を及ぼせる(コントロールできる)と考えたのでしょう。
しかしいざ実朝が死んで時元も粛清した後、政子らの意図を見抜いた後鳥羽上皇に「鎌倉に人質を出すようなものではないか!」とばかり拒絶されてしまいます。
頼仁親王をアテにしていたのに、その芽が摘まれて慌てた政子たちは、何とか源氏の血筋を引いていると言えなくはない三寅(みとら。後の第4代鎌倉殿・藤原頼経)を連れてくるのでした。