「鎌倉殿の13人」畠山重忠ロス必至!鎌倉武士の鑑が魅せた壮絶な最期・第35回放送「苦い盃」予習【後編】:3ページ目
悪いのはぜんぶ三郎……時政による苦しい責任転嫁
晴。未尅。相州已下被歸參于鎌倉。遠州被尋申戰塲事。相州被申云。重忠弟親類大略以在他所。相從于戰塲之者僅百餘輩也。然者。企謀叛事已爲虚誕。若依讒訴。逢誅戮歟。太以不便。斬首持來于陣頭。見之不忘年來合眼之眤。悲涙難禁云々。遠州無被仰之旨云々。酉尅。鎌倉中又騒動。是三浦平六兵衛尉義村。重廻思慮。於經師谷口。謀兮討榛谷四郎重朝。同嫡男太郎重季。次郎季重等也。稻毛入道爲大河戸三郎被誅。子息小澤次郎重政者。宇佐美与一誅之。今度合戰之起。偏在彼重成法師之謀曲。所謂右衛門權佐朝雅。於畠山次郎有遺恨之間。彼一族巧反逆之由。頻依讒申于牧御方〔遠州室〕。遠州潜被示合此事於稻毛之間。稻毛變親族之好。當時鎌倉中有兵起之由。就消息テ。重忠於途中逢不意之横死。人以莫不悲歎云々。
※『吾妻鏡』元久2年(1205年)6月23日条
「「……父上っ!」」
翌日、畠山一族を滅ぼして鎌倉へ帰って来た義時・時房らは時政夫婦を詰(なじ)りました。
「何が謀叛ですか。坂東じゅうから大軍を率いて駆けつけてみれば、次郎が率いていたのはたったの百数十騎。それも囮ではなく無為無策のまま討たれたことが無実であった何よりの証拠……それなのに!」
あまりにも潔い重忠の最期を知って涙せぬ者はなかったと言いますが、しかしそれならば義時の現場判断で攻撃中止してもよさそうなものです。
(もちろんそんなことをしたら自分の身が危くなるのでしませんし、武蔵国の利権を目の前にして他の御家人たちを留めることも難しかったでしょう)
まぁ(現場で討伐を指揮した)義時自身への批判をかわすパフォーマンスは功を奏して、批判の眼差しは時政へと注がれました。
「いや小四郎、五郎聞いてくれ。あぁそうじゃ、三郎じゃ。此度のことはぜんぶ稲毛入道めが悪いんじゃ!」
「父上……」
「おい平六、何とかせぇ!」
「……かしこまりました」
義村は策を講じて重成らを経師谷(きょうじがやつ)へ誘い出し、当人はじめ息子の小澤次郎重政(おざわ じろうしげまさ)・弟の榛谷四郎重朝(はんがや しろうしげとも)などことごとく粛清します。
「まったく三郎め、一族の絆を忘れて畠山一族を討とうなどと言う企みに賛同しおって。そのせいで無用の血が流れてしまったわい……やれやれ」
(遠州潜被示合此事於稻毛之間。稻毛變親族之好。當時鎌倉中有兵起之由)
これで問題を解決したつもりの時政ですが、そそのかされた重成が共犯だとしても、一番悪いのはそそのかした時政=主犯ではないのでしょうか。
「とにかく、この件はもうおしまいじゃ。悪いのはぜんぶ三郎ハイ解散、ご苦労様でした。次行ってみよう!」
「「「……」」」
半ば開き直った御家人たちの間に、強い不信感が残ったのは言うまでもありません。