「鎌倉殿の13人」畠山重忠ロス必至!鎌倉武士の鑑が魅せた壮絶な最期・第35回放送「苦い盃」予習【後編】:2ページ目
完全包囲された重忠の最期
一方6月19日に地元を出て、鎌倉へ向かっていた重忠たちが義時・時房らの大軍と遭遇したのは正午ごろ(午の刻)、場所は武蔵国二俣川(現:神奈川県横浜市)。
「申し上げます。鎌倉にて六郎殿が討ち取られ、すぐそこまで敵の軍勢が迫っております!」
重忠が率いていたのは息子の畠山小次郎重秀(こじろうしげひで)や郎従の本田次郎近常(ほんだ じろうちかつね)、榛沢六郎成清(はんざわ ろくろうなりきよ)はじめ、わずかに134騎。
折悪しく舎弟の長野三郎重清(ながの さぶろうしげきよ)は信濃国へ、同じく畠山六郎重宗(ろくろうしげむね)は奥州に出張しており、兵力が圧倒的に不足しています。
「ここはひとまず本拠地へ引き返して立て籠もり、ご舎弟方の援軍を待ちましょうぞ」
しかし近常らの助言を断り、重忠は皆に言い聞かせました。
「武士たる者、ひとたび家を出た以上は家族を忘れ肉親を忘れる覚悟が必要だ。六郎を喪ったいま、もはや帰る家はないも同じ。去んぬる正治2年(1200年)に梶原景時(演:中村獅童)殿がいっときの命を惜しんで討たれたが、ここは潔く戦い果てることで潔白を証明してやろうではないか。そもそも仮令潔白であれ(それこそ言いがかりであれ)、謀叛を疑われるような日ごろの油断をこそ恥じるべきだ」
こうして決死の覚悟を固めた重忠らに向かって、追討軍が押し寄せて来ました。その急先鋒は安達景盛。郎党の野田与一(のだ よいち)・加世次郎(かせ じろう)・飽間太郎(あきま たろう)・鶴見平次(つるみ へいじ)・玉村太郎(たまむら たろう)・与藤次(よとうじ)ら主従7騎が一丸となって突っ込んで来ます。
「おぉ、藤九郎(景盛)か。昔馴染みの親友と会えるのは、どんな場所でも嬉しいものだ……いいだろう。親友の誼だ、全力で殺してくりょうぞ!」
「いざ迎え討たん、勇気ある者はこの小次郎(重秀)に続け!」
「「「おおう……っ!」」」
ついに始まった畠山・北条両雄の決戦。134騎に対して何千とも何万とも言う大軍で完全包囲していながら、闘いは数時間にも及びました。これは重忠らがよほど強かった(恐れられた)のか、あるいは明らかに大義のない戦に北条方の腰が引け気味だったのかも知れません。
そもそも勝負は最初から見えているため、あえて死に物狂いで戦う相手に近寄って命を落としては死に損というもの。出陣したことである程度の恩賞(および戦後の厚遇)が確保されているのであれば猶更です。
さて、時は申の斜(午後17:00過ぎ。斜は終刻の意)に差しかかったころ、弓の達者である愛甲三郎季隆(あいこう さぶろうすえたか)が重忠を射止めました。
「敵の大将・畠山次郎、愛甲三郎が討ち取ったり!」
「父上ーっ!」
重忠の首級を掻っ攫った季隆はこれを義時の陣中へ持ち込み、いまだ奮戦していた小次郎重秀らは自害して果てたということです。