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二人は親子?それとも…源頼朝に仕えた雑色の鶴太郎・鶴次郎を紹介【鎌倉殿の13人】

二人は親子?それとも…源頼朝に仕えた雑色の鶴太郎・鶴次郎を紹介【鎌倉殿の13人】

奉納相撲にも出場

とまぁこんな具合で頼朝の使い走りとして鎌倉と京都を往復することの多い鶴次郎ですが、他にはこんな出番もありました。

時は建久3年(1192年)8月14日。鶴岡八幡宮寺の放生会(ほうじょうえ)で奉納相撲が行われた時、鶴次郎は選手として出場しています。

【予選の取組表】
一番 奈良藤次(なら とうじ)×荒次郎(あらじろう)
二番 鶴次郎×藤塚目(ふじづか さかんorとうの つかめ)
三番 犬武五郎(いぬたけ ごろう)×白河黒法師(黒法師丸?)
四番 佐賀良江六(さがら えのろく)×兼仗太郎(けんじょう たろう)
五番 所司三郎(しょし さぶろう)×小熊紀太(おぐま きのた)
六番 鬼王(おにおう)×荒瀬五郎(あらせ ごろう)
七番 紀六(きのろく)×王鶴(おうづる)
八番 小中太(こちゅうた。中原光家?)×千手王(せんじゅおう)

左側が勝者、鶴次郎は藤塚目を下して本選への出場を果たしたのでした。

それにしても、みんな本名なのか四股名なのか、鬼王とか千手王とか強そうですね。本選の結果については記録がないものの、鶴次郎の活躍を期待してしまいます。

また同じ年の9月17日、京都にいる一条能保(いちじょう よしやす。頼朝の姉妹婿)へ絹五十反と駿馬二頭を贈るため御厩舎人仲太(ちゅうた)と共に上洛。ただしこの時の結果については特に記録がありません。

鶴次郎が最後に登場するのは建久6年(1195年)2月4日。前年12月6日に相模・武蔵両国の年貢を京都へ運ぶため吉野三郎(よしの さぶろう)と共に出発、明けて1月12日にこれを納めて帰って来ました。

ちゃんと受領証も持ってきており、きちんと役目を務めあげた鶴次郎に、頼朝も安心したことでしょう。

こうして鶴次郎もまた、歴史の表舞台から姿を消したのでした。

終わりに

以上、『吾妻鏡』から鶴太郎と鶴次郎を紹介しました。ちなみに鶴太郎という名前の者はもう一人おり、文治6年(1190年。建久元年)1月6日に出羽国で叛乱を起こした大河兼任(おおかわ かねとう)の嫡男が登場します。

しかし彼はもちろん別人であり、間もなく行方不明になってしまいました(恐らく討伐されたのでしょう)。

話を戻して、『吾妻鏡』には他にも多くの雑色や下級官人などが登場します。言わば歴史舞台のエキストラにも目を向けて見ると、より共感できて面白いです。

皆さんも、ぜひ『吾妻鏡』を読んでみて、推しキャラを見つけてほしいと思います。

※参考文献:

  • 御家人制研究会『吾妻鏡人名索引』吉川弘文館、1993年3月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 1頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年11月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 2平氏滅亡』吉川弘文館、2008年3月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 3幕府と朝廷』吉川弘文館、2008年6月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 4奥州合戦』吉川弘文館、2008年9月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 5征夷大将軍』吉川弘文館、2009年3月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 6富士の巻狩』吉川弘文館、2009年6月
 

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