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二人は親子?それとも…源頼朝に仕えた雑色の鶴太郎・鶴次郎を紹介【鎌倉殿の13人】

二人は親子?それとも…源頼朝に仕えた雑色の鶴太郎・鶴次郎を紹介【鎌倉殿の13人】:3ページ目

鶴次郎、走り継ぐ

以上で鶴太郎の出番(名前が出る場面)は終わり。その役目は鶴次郎に受け継がれた?ようです。

鶴次郎のデビューは文治元年(1185年)12月16日。京都へ使いに向かっていた黒法師丸(くろほうしまる)が鎌倉へ戻ってきて言いました。

「道中、駿河国岡部宿で相棒の浜四郎(はましろう)が急病で倒れて寝込んでしまい、起き上がることもままなりません。それで務めが果たせないので帰って来ました」

とのこと。仕方がないので頼朝は鶴次郎と生沢五郎(いくさわ ごろう)を同行させ、3人で再び京都へ向かわせたということです。

果たして3人は12月26日に京都へ到着、明けて文治2年(1186年)1月7日に帰ってきました。

この時、何の用事で何を持って(あるいは手ぶらで)行ったのかは詳しく記されていないものの、鎌倉から京都へはだいたい10日間くらいで行けることが判ります。

同じ年の10月16日、頼朝は鶴次郎を使者として上洛させました。今回は京都にいる北条時定(ほうじょう ときさだ。北条時政の弟?従兄弟?)に「藤原範季(ふじわらの のりすえ。木工頭)が鎌倉に叛旗をひるがえした源義経(よしつね)に内通している」ことを伝えるのです。

「三日で行け!」

通常であれば10日ほどの距離を3日で行くよう急かしており、出発したのも丑の刻(午前2:00ごろ)と早朝通り越して深夜。よほどの重大事と考えていたことがわかります。

鶴次郎が実際に何日で着いたのかはともかく、京都で用事を済ませると現地に来ていた生沢五郎・御厩舎人宗重(みんまやのとねり むねしげ)らと合流して11月17日に帰って来ました。

「兵衛尉(ひょうゑのじょう。時定)殿からの書状です」

そこには生沢五郎らが献上した駿馬は無事に納められたこと、合わせて藤原範季は職を解かれたことが記されています。

4ページ目 奉納相撲にも出場

 

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