洒脱でラップ調な狂歌で藩政を批判…江戸時代の高僧・仙厓義梵が詠んだ心意気
古来「口は禍の元」とはよく言ったもので、余計な一言でトラブルに巻き込まれたり、果ては人生を狂わせたりすることも少なくありません。
しかし「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ やまとだましい(意訳:結果は百も承知だが、義に起たねばならぬ時もある)」とも詠まれる通り、自分のことなら見過ごせても、天下公益のためと信じて声を上げる者は少なくありません。
そこで今回は江戸時代の禅僧・仙厓義梵(せんがい ぎぼん)のエピソードを紹介。その訴えは、果たして聞き届けられたのでしょうか。
仙厓義梵のユルふわ禅画作品↓
永年の修行で功徳を積むが……
仙厓義梵は寛延3年(1750年)、美濃国武儀郡(現:岐阜県中部)に住む農民・井藤甚八(いとう じんぱち)の子供として誕生しました。
宝暦10年(1760年)ごろ清泰寺(臨済宗。岐阜県美濃市)に入門、空印円虚(くういん えんこ)のもとで得度を受けます。
やがて19歳となった明和5年(1768年)、武蔵国久良岐郡永田(神奈川県横浜市)の東輝庵を訪れ、月船禅彗(がっせん ぜんすい)のもとで修行しました。
研鑽の末に印可を受けた仙厓は、天明元年(1781年)に禅彗が亡くなると美濃へ帰ってきます。
「ようお戻り下さいました。当山では住職が亡くなり後継者を誰にするか相談していたところ。どうかお受けいただけますまいか……」
これは渡りに船……古巣のためにご奉仕しようと思ったら、河村甚右衛門(かわむら じんゑもん)なる武士が横槍を入れてきました。
「仙厓殿は農民の子と聞く。武士がそんな住職に頭を下げられる訳がなかろう!」
僧侶が尊いのは仏道に帰依して功徳を積まれたからであって、生まれた家柄は関係なかろう……とは思うものの仕方ありません。結局、住職の話は流れてしまったのでした。