「鎌倉殿の13人」ネタバレ注意!前半放送の振り返りと後半 “血で血を洗う惨劇の連続” の予習:3ページ目
【ネタバレ注意!】これからのお楽しみ
さて、名残はつきないものの、語りだすと止まらないので後半戦の予習に移りましょう。
まずは頼朝が亡くなってから承久の乱に至るまで、御家人たちが繰り広げた政治抗争を年表にまとめます(★は流血沙汰を未然に防げた事件)。
正治元年(1199年)
7月~8月 ★安達景盛討伐未遂
⇒頼家が景盛の愛妾を強奪した挙げ句に攻め滅ぼそうとするも、母・政子に叱られて兵を退く
正治2年(1200年)
1月 梶原景時滅亡
⇒御家人66人の連名で糾弾され、13人から初の脱落
建仁元年(1201年)
1~5月 城氏の乱
⇒京都・越後にて挙兵。梶原景時と共に決起する予定だった。ある種の弔い合戦
建仁3年(1203年)
5~6月 阿野全成流罪・殺害
⇒比企派による北条派への先制攻撃。下手人は八田知家
9月 比企能員の乱
⇒北条氏によるクーデター。頼家は後ろ盾を失い完全に孤立・修善寺へ追放される
元久元年(1204年)
7月 源頼家暗殺
⇒修善寺に幽閉されていた頼家、入浴中に暗殺される(諸説あり)
元久2年(1205年)
6月 畠山重忠の乱
⇒牧の方にそそのかされた時政、義時・時房に命じて無実の畠山重忠を討たせる
閏7月 牧氏の変・北条時政追放
⇒実朝を排して娘婿の平賀朝雅を擁立する計画が発覚、時政夫婦は伊豆へ追放
8月 ★宇都宮頼綱討伐未遂
⇒北坂東の雄・宇都宮頼綱に謀叛容疑。小山朝政がこれをかばって一件落着
建保元年(1213年)
2月 ★泉親衡反乱未遂
⇒頼家の遺児・栄実を担ぎ上げて謀叛を企むが発覚
5月 和田合戦
⇒和田義盛が義時に宣戦布告。鎌倉が火の海に。和田一族滅亡
9月 畠山重慶暗殺
⇒粛清された重忠の末子・重慶が謀叛の容疑により、長沼宗政に殺される
建保2年(1214年)
11月 栄実殺害
⇒和田一族の残党が再び担ぎ上げて謀叛を企んだため、殺される
承久元年(1219年)
1月 源実朝暗殺
⇒頼家の遺児・公暁が逆恨みで実朝を暗殺
2月 阿野時元殺害
⇒阿野全成の遺児・時元が将軍位を望んで挙兵、討伐される(諸説あり)
承久2年(1220年)
4月 禅暁殺害
⇒源氏将軍の断絶により還俗を求められるが、暗殺される。これによって頼朝と政子の血を引く男児は全滅。