「上様を太政大臣か関白、あるいは将軍に任命せよ」
時は天正10年(1582年)4月25日、村井貞勝(むらい さだかつ)は主君・織田信長(おだ のぶなが)の意向として、公卿の勧修寺晴豊(かじゅうじ はるとよ)にこんな要求を突きつけたとか。
畏れ多くも朝廷に対し、臣下の分際で「官職をよこせ」とは不敬千万……怒った朝廷は織田重臣の明智光秀(あけち みつひで)に密命を下し、6月2日にかの「本能寺の変」を起こさせた……という朝廷黒幕説(※実際には他の諸要因もあるものの、説明の便宜上割愛)。
果たして、本当にそんなことがあったのでしょうか。今回は勧修寺晴豊の日記とされる『日々記(にちにちき。晴豊記)』より、その真相に迫ってみたいと思います。
そもそも官職なんて欲しくない信長
「安土へ女房衆御下し候て、太政大臣か関白か将軍か、御推任候て然るべく候よし被申候、その由申し入れ候」
※『日々記』天正10年(1582年)4月25日条
【意訳】安土城にいる信長の元へ女房たち(適切な皇女)を降嫁させ、太政大臣か関白か将軍かに任命して然るべきとの旨を申されていたということを申し入れた。
……主語がなく、後半は何ともわかりにくい表現ですね。なので、この発言者(申し入れた者)が貞勝(織田家側)なのか晴豊(朝廷側)なのかは諸説あります。
朝廷からの申し出であれば「信長殿に皇女を嫁がせ、適切な官職を授けたい」と穏当な感じですが、もし信長の要求であるなら「皇女(体のいい人質)と何かいい官職をよこせ」と、実に剣呑な状況です。
しかし協議の結果、晴豊は5月4日に安土城へ勅使として赴き、「関東平定の功績の賞として征夷大将軍に任命したい」意向を信長に伝えました。
これまた『日々記』の記述がややこしいので、返事を保留した説と断った説があるものの、少なくともストレートに受けてはいないようです。
もし信長が貞勝を通じて官位を要求していたなら、武家の棟梁に相応しい征夷大将軍の任官を喜んで受けるはず。まさか「要求するだけしておいて、いざ授けられたら拒否する」なんて誰の得にもなりません。
信長が任官を要求するなら、太政大臣か関白か~なんて中途半端なことは言わず、ハッキリと「将軍になりたい」と指定してくるはずです。
要するに任官の件は「朝廷としては何か官職を授けたいのだが?」という晴豊の諮問に対して、貞勝が「それなら太政大臣か関白、将軍辺りが妥当なんじゃないでしょうか」と答申したものと考えられます。
しかし信長は将軍どころか、どんな官職も欲しくはなかったのです。